したら、名高い、ギョウテの(ファウスト)だとか、シルレルの(ウィルヘルム、テル)………でしたっけかね、それなんぞ、何年ぐらいで読めるようになるんでしょう。」
「直《じ》き読めます、」
 と読本を受取って、片手で大掴《おおづか》みに引開けながら、
「僕ぐらいにはという、但書が入りますけれど。」
「だって……」
「いいえ、出来ます。」
「あら、ほんとに……」
「もっとも月謝次第ですな。」
「ああだもの、」
 と衝《つ》と身を退《の》いて、叱るがごとく、
「なぜそうだろう。ちゃんと御馳走は存じておりますよ。」
 茶棚の傍《わき》の襖《ふすま》を開けて、つんつるてんな着物を着た、二百八十間の橋向う、鞠子辺《まりこあたり》の産らしい、十六七の婢《おさん》どんが、
「ふァい、奥様。」と訛《なま》って云う。
 聞いただけで、怜悧《りこう》な菅子は、もうその用を悟ったらしい。
「誰か来たの?」
「ひゃあ、」
「あら、厭《いや》な。ちょいと、当分は留守とおいいと云ったじゃないの?」
「アニ、はい、で、ござりますけんど、お客様で、ござんしねえで、あれさ、もの、呉服町の手代|衆《しゅ》でござりますだ。」
「ああ、谷屋のかい、じゃ構わないよ、こちらへ、」
 と云いかけて、主税を見向いて、
「かくまって有る人だから……ほほほほ、そっちへ行《ゆ》きましょうよ。」
 衣紋《えもん》を直したと思うと、はらりと気早に立って、踞《つくば》った婢《おんな》の髪を、袂で払って、もう居ない。
 トきょとんとした顔をして、婢は跡も閉めないで、のっそり引込む。
 はて心得ぬ、これだけの構《かまえ》に、乳母の他はあの女中ばかりであろうか。主人は九州へ旅行中で、夫人が七日ばかりの留守を、彼だけでは覚束ない。第一、多勢の客の出入に、茶の給仕さえ鞠子はあやしい、と早瀬は四辺《あたり》を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》したが――後で知れた――留守中は、実家《さと》の抱《かかえ》車夫が夜|宿《とま》りに来て、昼はその女房が来ていたので。昼飯の時に分ったのでは、客へ馳走は、残らず電話で料理屋から取寄せる……もっとも、珍客というのであったかも知れぬ。
 そんな事はどうでも可いが、不思議なもので、早瀬と、夫人との間に、しきりに往来《ゆきき》があったその頃しばらくの間は、この家に養われて中学へ通っている書生の、美濃安八《みのあはち》の男が、夫人が上京したあと直ぐに、故郷の親が病気というので帰っていた――これが居ると、たとい日中《ひなか》は学校へ出ても、別に仔細《しさい》は無かったろうに。
 さて、夫人は、谷屋の手代というのを、隣室《となり》のその十畳へ通したらしい、何か話声がしている内、
「早瀬さん――」
 主税は、夫人が此室《ここ》を出て、大廻りに行った通りに、声も大廻りに遠い処に聞き取って、静にその跡を辿《たど》りつつ返事が遅いと、
「早瀬さん、」
 と近くまた呼ぶ。今しがた、(かくまって有る人だ)と串戯《じょうだん》を云ったものを。
「室数《まかず》は幾つばかりあれば可《よ》くって?」
「何です、何です。」
 余り唐突《だしぬけ》で解し兼ねる。
「貴下《あなた》のお借りなさろうというお家《うち》よ。ちょいと、」
「ええ、そうですね。」
「おほほほ、話しが遠いわ。こっちへいらっしゃいよ。おほほほ、縁側から、縁側から。」
 夫人がした通りに、茶棚の傍《わき》の襖口へ行きかけた主税は、(菅女部屋)の中を、トぐるりと廻って、苦笑《にがわらい》をしながら縁へ出ると、これは! 三足と隔てない次の座敷。開けた障子に背《せな》を凭《も》たせて、立膝の褄は深いが、円く肥えた肱《ひじ》も露《あらわ》に夫人は頬を支えていた。
「朝から戸迷《とまど》いをなすっては、泊ったら貴下、どうして、」
 と振向いた顔の、花の色は、合歓《ねむ》の影。
「へへへへへ」
 と、向うに控えたのは、呉服屋の手代なり。鬱金《うこん》木綿の風呂敷に、浴衣地が堆《うずたか》い。


     二人連

       十

 午後《ひるすぎ》、宮ヶ崎町の方から、ツンツンとあちこちの二階で綿を打つ音を、時ならぬ砧《きぬた》の合方にして、浅間の社の南口、裏門にかかった、島山夫人、早瀬の二人は、花道へ出たようである。
 門際の流《ながれ》に臨むと、頃日《このごろ》の雨で、用水が水嵩《みずかさ》増して溢《あふ》るるばかり道へ波を打って、しかも濁らず、蒼《あお》く飜《ひるがえ》って竜《りょう》の躍るがごとく、茂《しげり》の下《もと》を流るるさえあるに、大空から賤機山《しずはたやま》の蔭がさすので、橋を渡る時、夫人は洋傘《かさ》をすぼめた。
 と見ると黒髪に変りはないが、脊がすらりとして、帯腰の靡《なび》くように見えたのは、羽織なしの一枚|袷《あわせ》という扮装《でたち》のせいで、また着換えていた――この方が、姿も佳《よ》く、よく似合う。ただし媚《なまめか》しさは少なくなって、いくらか気韻が高く見えるが、それだけに品が可い。
 セルで足袋を穿《は》いては、軍人の奥方めく、素足では待合から出たようだ、と云って邸《やしき》を出掛《でが》けに着換えたが、膚《はだ》に、緋《ひ》の紋縮緬《もんちりめん》の長襦袢《ながじゅばん》。
 二人の児《こ》の母親で、その燃立つようなのは、ともすると同一《おなじ》軍人好みになりたがるが、垢《あか》抜けのした、意気の壮《さかん》な、色の白いのが着ると、汗ばんだ木瓜《ぼけ》の花のように生暖《なまあたたか》なものではなく、雪の下もみじで凜《りん》とする。
 部屋で、先刻《さっき》これを着た時も、乳を圧《おさ》えて密《そっ》と袖を潜《くぐ》らすような、男に気を兼ねたものではなかった。露《あらわ》にその長襦袢に水紅《とき》色の紐をぐるぐると巻いた形《なり》で、牡丹の花から抜出たように縁の姿見の前に立って、
(市川菅女。)と莞爾々々《にこにこ》笑って、澄まして袷を掻取《かいと》って、襟を合わせて、ト背向《うしろむ》きに頸《うなじ》を捻《ね》じて、衣紋《えもん》つきを映した時、早瀬が縁のその棚から、ブラッシを取って、ごしごし痒《かゆ》そうに天窓《あたま》を引掻《ひっか》いていたのを見ると、
「そんな邪険な撫着《なでつ》けようがあるもんですか、私が分けて上げますからお待ちなさい。」
 と云うのを、聞かない振でさっさと引込《ひっこ》もうとしたので、
「あれ、お待ちなさい」と、下〆《したじめ》をしたばかりで、衝《つ》と寄って、ブラッシを引奪《ひったく》ると、窓掛をさらさらと引いて、端近で、綺麗に分けてやって、前へ廻って覗《のぞ》き込むように瞳をためて顔を見た。
 胸の血汐《ちしお》の通うのが、波打って、風に戦《そよ》いで見ゆるばかり、撓《たわ》まぬ膚《はだえ》の未開紅、この意気なれば二十六でも、紅《くれない》の色は褪《あ》せぬ。
 境内の桜の樹蔭《こかげ》に、静々、夫人の裳《もすそ》が留まると、早瀬が傍《かたわら》から向うを見て、
「茶店があります、一休みして参りましょう。」
「あすこへですか。」
「お誂《あつら》え通り、皺《しわ》くちゃな赤毛布《あかげっと》が敷いてあって、水々しい婆さんが居ますね、お茶を飲んで行きましょうよ。」
 と謹んで色には出ぬが、午飯《ひる》に一銚子《ひとちょうし》賜ったそうで、早瀬は怪しからず可い機嫌。
「咽喉《のど》が渇いて?」
「ひりつくようです。」
「では……」
 茶店の婆さんというのが、式《かた》のごとく古ぼけて、ごほん、と咳《せ》くのが聞えるから、夫人は余り気が進まぬらしかったが、二三人|子守女《もりっこ》に、きょろきょろ見られながら、ずッと入る。
「お掛けなさいまし。お日和でございます。よう御参詣なさりました。」
 夫人が彳《たたず》んでいて掛けないのを見て、早瀬は懐中《ふところ》から切立の手拭《てぬぐい》を出して、はたはたと毛布《けっと》を払って、
「さあ、どうぞ、」
 笑って云うと、夫人は婆さんを背後《うしろ》にして、悠々と腰を下ろして、
「江戸児《えどっこ》は心得たものね。」
「人を馬鹿にしていらっしゃる。」
 と、さしむかいの夫人の衣紋はずれに、店先を覗いて、
「やあ、甘酒がある……」

       十一

「お止しなさいよ。先刻《さっき》もあんなものを食《あが》ってさ、お腹を悪くしますから。」
 と低声《こごえ》でたしなめるように云った、(先刻のあんなもの)は――鮪の茶漬で――慶喜公の邸あとだという、可懐《なつか》しいお茶屋から、わざと取寄せた午飯《ひる》の馳走の中に、刺身は江戸には限るまい、と特別に夫人が膳につけたのを、やがてお茶漬で掻込《かっこ》んだのを見て、その時は太《いた》く嬉しがった。
 得てこれを嗜《たしな》むもの、河野の一門に一人も無し、で、夫人も口惜《くやし》いが不可《いけな》いそうである。
「ここで甘酒を飲まなくっては、鳩にして豆、」
 と云うと、婆さんが早耳で、
「はい、盆に一杯五厘|宛《ずつ》でございます。」
「私は鳩と遊びましょう。貴下《あなた》は甘酒でも冷酒でも御勝手に召食《めしあが》れ。」
 と前の床几《しょうぎ》に並べたのを、さらりと撒《ま》くと、颯《さっ》と音して、揃いも揃って雉子鳩《きじばと》が、神代《かみよ》に島の湧《わ》いたように、むらむらと寄せて来るので、また一盆、もう一盆、夫人は立上って更に一盆。
「一杯、二杯、三杯、四杯、五杯!」
 早瀬はその数を算《かぞ》えながら、
「ああ、僕はたった一杯だ。婆さん甘酒を早く、」
「はいはい、あれ、まあ、御覧《ごろう》じまし、鳩の喜びますこと、沢山《たんと》奥様に頂いて、クウクウかいのう、おおおお、」
 と合点《がってん》々々、ほたほた笑《えみ》をこぼしながら甘酒を釜から汲《く》む。
 見る見るうち、輝く玄潮《くろしお》の退《ひ》いたか、と鳩は掃いたように空へ散って、咄嗟《とっさ》に寂寞《せきばく》とした日当りの地の上へ、ぼんやりと影がさして、よぼよぼ、蠢《うごめ》いて出た者がある。
 鼻の下はさまででないが、ものの切尖《きっさき》に痩《や》せた頤《おとがい》から、耳の根へかけて胡麻塩髯《ごましおひげ》が栗の毬《いが》のように、すくすく、頬肉《ほおじし》がっくりと落ち、小鼻が出て、窪んだ目が赤味走って、額の皺《しわ》は小さな天窓《あたま》を揉込《もみこ》んだごとく刻んで深い。色|蒼《あお》く垢《あか》じみて、筋で繋《つな》いだばかりげっそり肩の痩せた手に、これだけは脚より太い、しっかりした、竹の杖を支《つ》いたが、さまで容子《ようす》の賤《いや》しくない落魄《おちぶれ》らしい、五十|近《ぢか》の男の……肺病とは一目で分る……襟垢がぴかぴかした、閉糸《とじいと》の断《き》れた、寝ン寝子を今時分。
 藁草履《わらぞうり》を引摺《ひきず》って、勢《いきおい》の無さは埃《ほこり》も得《え》立てず、地の底に滅入込《めりこ》むようにして、正面から辿《たど》って来て、ここへ休もうとしたらしかったが、目ももう疎《うと》くて、近寄るまで、心着かなんだろう。そこに貴婦人があるのを見ると、出かかった足を内へ折曲げ、杖で留めて、眩《まばゆ》そうに細めた目に、あわれや、笑を湛《たた》えて、婆さんの顔をじろりと見た。
「おお、貞《てい》さんか。」
 と耳立つほど、名を若く呼んだトタンに、早瀬は屹《きっ》となって鋭く見た。
 が、夫人は顔を背けたから何にも知らない。
「主《ぬし》あ、どうさしった、久しく見えなんだ。」
 と云うさえ、下地はあるらしい婆さんの方が、見たばかりでもう、ごほごほ。
「方なしじゃ、」
 思いの他《ほか》、声だけは確であったが、悪寒がするか、いじけた小児《こども》がいやいや[#「いやいや」に傍点]をすると同一《おなじ》に縮《すく》めた首を破れた寝ン寝子の襟に擦《こす》って、
「埒明《らちあ》かんで、久しい風邪でな、稼業は出来ず、段々弱るばっかりじゃ。芭蕉の葉を煎じて飲むと、熱が除《
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