の母なども大きにお案じ申しております。どういう御容体でいらっしゃりまするか、私《わたくし》もその、甚だ心配を仕《つかまつ》りまするので、はあ、」
「別に心配なんじゃありません。肺病でも癩病でもないんですから。」
 と先生警抜なことを云って、俯向《うつむ》きざまに、灰を払ったが、左手《ゆんで》を袖口へ掻込《かいこ》んで胸を張って煙を吸った。礼之進は、畏《かしこま》ったズボンの膝を、張肱《はりひじ》の両手で二つ叩いて、スーと云ったばかりで、斜めに酒井の顔を見込むと、
「たかだか風邪のこじれです。」
「その風邪が万病の原《もと》じゃ、と誰でも申すことでごわりまするが、事実《まったく》でな。何分御注意なさらんとなりません。」
 と妙に白けた顔が、燈火に赤く見えて、
「では、さように御病中でごわりましては、御縁女の事に就きまして、御令室とまだ御相談下さります間もごわりませんので?」
 と重々しく素引《そび》きかけると、酒井は事も無げな口吻《くちぶり》。
「いや、相談はしましたよ。」
「ははあ、御相談下さりましたか。それは、」と頤《あご》を揉んで、スーと云って、
「御令室の思召《おぼしめし》はいかがでごわりましょうか。実はな、かような事は、打明けて申せば、貴下《あなた》より御令室の御意向が主でごわりまするで、その御言葉一ツが、いかがの極まりまする処で、推着《おしつ》けがましゅうごわりますが、英吉君の母も、この御返事……と申しまするより、むしろ黄道吉日をば待ちまして、唯今もって、東京《こちら》に逗留《とうりゅう》いたしておりまする次第で。はあ。御令室の御言葉一ツで、」
 と、意気込んで、スーと忙《せわ》しく啜《すす》って、
「何か、私《わたくし》までも、それを承りまするに就いて、このな、胸が轟《とどろ》くでごわりまするが、」
 と熟《じっ》と見据えると、酒井は半ば目を閉じながら、
「他《ほか》ならぬ先生の御口添じゃあるし、伺った通りで、河野さんの方も申分も無い御家です。実際、願ってもない良縁で、もとよりかれこれ異存のある筈《はず》はありませんが、ただ不束《ふつつか》な娘ですから、」
「いや、いや、」
 と頭を掉《ふ》って、大《おおき》に発奮《はず》み、
「とんだ事でごわります、怪しかりませんな、河野英吉夫人を、不束などと御意なされますると、親御の貴下のお口でも、坂田礼之進聞棄てに相成りません、はははは。で、御承諾下さりますかな。」
「家内は大喜びで是非とも願いたいと言いますよ。」
 時に襖《ふすま》に密《そ》と当った、柔《やわらか》な衣《きぬ》の気勢《けはい》があった――それは次の座敷からで――先生の二階は、八畳と六畳|二室《ふたま》で、その八畳の方が書斎であるが、ここに坂田と相対したのは、壇から上口《あがりぐち》の六畳の方。
 礼之進はまた額に手を当て、
「いや、何とも。私《わたくし》大願成就仕りましたような心持で。お庇《かげ》を持ちまして、痘痕《あばた》が栄えるでごわりまする。は、はは、」
 道学先生が、自からその醜を唱うるは、例として話の纏まった時に限るのであった。

       五十六

 望んでも得難き良縁で異存なし、とあれば、この縁談はもう纏《まとま》ったものと、今までの経験に因って、道学者はしか心得るのに、酒井がその気骨|稜々《りょうりょう》たる姿に似ず、悠然と構えて、煙草の煙を長々と続ける工合が、どうもまだ話の切目ではなさそうで、これから一物あるらしい、底の方の擽《くすぐ》ったさに、礼之進は、日一日|歩行《あるき》廻る、ほとぼりの冷めやらぬ、靴足袋の裏が何となく生熱い。
 坐った膝をもじもじさして、
「ええ、御令室が御快諾下されましたとなりますると、貴下《あなた》の思召《おぼしめし》は。」
 ちっとも猶予《ため》らわずに、
「私に言句《もんく》のあろう筈はありません。」
「はあ、成程、」と乗かかったが、まだ荷が済まぬ。これで決着しなければならぬ訳だが……
「しますると、御当人、妙子様でごわりまするが。」
「娘は小児《こども》です。箸を持って、婿をはさんで、アンとお開き、と哺《くく》めてやるような縁談ですから、否《いや》も応もあったもんじゃありません。」
 と小刻《こきざみ》に灰を落したが、直ぐにまた煙草にする。
 道学先生、堪《たま》りかねて、手を握り、膝を揺《ゆす》って、
「では、御両親はじめ、御縁女にも、御得心下されましたれば、直ぐ結納と申すような御相談はいかがなものでごわりましょうか。善は急げでごわりまするで。」と講義の外の格言を提出した。
「先生、そこですよ。」と灰吹に、ずいと突込む。
「成程、就きまして、何か、別儀が。」
「大有り。(と調子が砕けて、)私どもは願う処の御縁であるし、妙にもかれこれは申させません。無論ですね、お前、河野さんの嫁になるんだ。はい、と云うに間違いはありませんが、他《ほか》にもう一人、貴下からお話し下すって、承知をさせて頂きたいものがあるんです。どうでしょう、その者へ御相談下さるわけに参りましょうか。」
「お易い事で。何でごわりまするか、どちらぞ、御親類ででもおあんなさりまするならば、直ぐにこの足で駈着けましても宜しゅう存じまするで。ええ、御姓名、御住所は何とおっしゃる?」
「住居《すまい》は飯田町ですが、」
 と云う時、先生の肩がやや聳《そび》えた。
「早瀬ですよ。」
「御門生。」と、吃驚《びっくり》する。
「掏摸《すり》一件の男です。」と意味ありげに打微笑む。
 礼之進、苦り切った顔色《がんしょく》で、
「へへい、それはまた、どういう次第でごわりまするか、ただ御門生と承りましたが、何ぞ深しき理由でもおありなさりますと云う……」
「理由も何にもありません。早瀬は妙に惚れています。」と澄まして云った、酒井俊蔵は世に聞えたる文学士である。
 道学者はアッと痘痕、目を円《つぶら》かにして口をつぐむ。
「実の親より、当人より、ぞッこん惚れてる奴の意向に従った方が一番間違が無くって宜しい。早瀬がこの縁談を結構だ、と申せば、直ぐに妙を差上げますよ。面倒は入《い》らん。先生が立処《たちどころ》に手を曳《ひ》いて、河野へ連れてお出でなすって構いません。早瀬が不可《いけな》い、と云えば、断然お断りをするまでです。」
 黙ってはいられない。
「しますると、その、」
 と少し顔の色も変えて、
「御門生は、妙子様に……」と、あとは他人でもいささか言いかねて憚《はばか》ったのを、……酒井は平然として、
「惚れていますともさ。同一《ひとつ》家に我儘《わがまま》を言合って一所に育って、それで惚れなければどうかしているんです。もっともその惚方――愛――はですな、兄妹《きょうだい》のようか、従兄妹《いとこ》のようか、それとも師弟のようか、主従《しゅうじゅう》のようか、小説のようか、伝奇のようか、そこは分りませんが、惚れているにゃ違いないのですから、私は、親、伯父、叔母、諸親類、友達、失礼だが、御媒酌人《おなこうど》、そんなものの口に聞いたり、意見に従ったりするよりは、一も二もない、早手廻しに、娘の縁談は、惚れてる男に任せるんです。いかがでしょう、先生、至極妙策じゃありませんか。それともまた酒飲みの料簡《りょうけん》でしょうか。」
 と串戯《じょうだん》のように云って、ちょっと口切《くぎ》ったが、道学者の呆れて口が利けないのに、押被《おっかぶ》せて、
「さっぱりとそうして下さい。」

       五十七

「貴下《あなた》、ええ、お言葉ではごわりまするが、スー」と頬の窪むばかりに吸って、礼之進、ねつねつ、……
「さよういたしますると、御門生早瀬子が令嬢を愛すると申して、万一結婚をいたしたいと云うような場合におきましては……でごわりまする……その辺はいかがお計らいなされまする思召《おぼしめし》でごわりまするな。」
「勝手にさせます。」と先生言下に答えた。
 これにまた少なからず怯《おびや》かされて、
「しまするというと、貴下は自由結婚を御賛成で。」
「いや、」
「はあ、いかような御趣意に相成りまするか。」
「私は許嫁《いいなずけ》の方ですよ。」と酒井は笑う。
「許嫁? では、早瀬子と、令嬢とは、許嫁でお在《いで》なされますので。」
「決してそんな事はありません。許嫁は、私と私の家内とです。で、二人ともそれに賛成……ですか。同意だったから、夫婦になりましたよ。妙の方はどんな料簡だか、更《さ》らに私には分りません。早瀬とくッついて、それが自由結婚なら、自由結婚、誰かと駈落をすれば、それは駈落結婚、」と澄ましたものである。
「へへへ、御串戯《ごじょうだん》で。御議論がちと矯激《きょうげき》でごわりましょう!」
「先生、人の娘を、嫁に呉れい、と云う方がかえって矯激ですな、考えて見ると。けれども、習慣だからちっとも誰も怪《あやし》まんのです。
 貴下から縁談の申込みがある。娘には、惚れてる奴が居ますから、その料簡次第で御話を取極《とりき》める、と云うに、不思議はありますまい。唐突《だしぬけ》に嫁入《よめ》らせると、そのぞっこんであった男が、いや、失望だわ、懊悩《おうのう》だわ、煩悶《はんもん》だわ、辷《すべ》った、転んだ、ととかく世の中が面倒臭くって不可《いか》んのです。」
「で、ごわりまするが、この縁談が破れますると、早瀬子はそれで宜しいとして、英吉君の方が、それこそ同じように、失望、懊悩、煩悶いたしましょうで、……その辺も御勘考下さりまするように。」
「大丈夫、」
 と話は済んだように莞爾《にっこり》して、
「昔から媒酌人《なこうど》附の縁談が纏まらなかった為に、死ぬの、活きるの、と云った例《ためし》はありません。騒動の起るのは、媒酌人なしの内証の奴に極《きま》ったものです。」
「はあ、」
 と云って、道学者は口を開《あ》いて、茫然として酒井の顔を見ていたが、
「しかし、貴下、聞く処に拠《よ》りますると、早瀬子は、何か、芸妓《げいしゃ》風情を、内へ入れておると申すでごわりまするが。」
「さよう、芸妓を入れていて、自分で不都合だと思ったら、妙には指もさしますまい。直ちに河野へ嫁入らせる事に同意をしましょう。それとも内心、妙をどうかしたいというなら、妙と夫婦になる前に、芸妓と二人で、世帯の稽古をしているんでしょう。どちらとも彼奴《あいつ》の返事をお聞き下さい。或《あるい》は、自分、妙を欲しいではないが、他《ほか》なら知らず河野へは嫁《や》っちゃ不可《いか》ん、と云えば、私もお断《ことわり》だ。どの道、妙に惚れてる奴だから、その真実愛しているものの云うことは、娘に取っては、神仏《かみほとけ》の御託宣《おつげ》と同一《おんなじ》です。」
 形勢かくのごとくんば、掏摸の事など言い出したら、なおこの上の事の破れ、と礼之進行詰って真赤《まっか》になり、
「是非がごわりませぬ。ともかく、早瀬子を説きまして、更《あらた》めて御承諾を願おうでごわりまする。が、困りましたな。ええ、先刻も飯田町の、あの早瀬子の居《お》らるる路地を、私《わたくし》通りがかりに覗《のぞ》きますると、何か、魚屋体のものが、指図をいたして、荷物を片着けおりまする最中。どこへ引越《ひっこ》される、と聞きましたら、(引越すんじゃない、夜遁《よに》げだい。)と怒鳴ります仕誼《しぎ》で、一向その行先も分りませんが。」
 先生|哄然《こうぜん》として、
「はははは、事実ですよ。掏摸の手伝いをしたとかで、馬鹿野郎、東京には居られなくなって、遁げたんです。もうこちらへも暇乞《いとまごい》に来ましたが、故郷の静岡へ引込む、と云っていましたから、河野さんの本宅と同郷でしょう。御相談なさるには便宜かも知れません。……御随意に、――お引取を。」
 ああ、媒酌人《なこうど》には何がなる。黄色い手巾《ハンケチ》を忘れて、礼之進の帰るのを、自分で玄関へ送出して、引返して、二階へ上った、酒井が次のその八畳の書斎を開けると、そこには、主税が、膳の前に手を支《つ》いて、畏《かしこま》って落涙
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