で、
「大変でございます。お台所口へいらっしゃいます。」
「ええ、こちらへ、」
 と裾を捌《さば》くと、何と思ったか空を望み、破風《はふ》から出そうにきりりと手繰って、引窓をカタリと閉めた。
「あれ、奥様。」
「お前、そのお盆なんぞ、早くよ。」と釣鐘にでも隠れたそうに、肩から居間へ飜然《ひらり》と飛込む。
 驚いたのはお源坊、ぼうとなって、ただくるくると働く目に、一目輝くと見たばかりで、意気地なくぺたぺたと坐って、偏《ひとえ》に恐入ってお辞儀をする。
「御免なさいよ。」
 と優《やさし》い声、はッと花降る留南奇《とめき》の薫に、お源は恍惚《うっとり》として顔を上げると、帯も、袂《たもと》も、衣紋《えもん》も、扱帯《しごき》も、花いろいろの立姿。まあ! 紫と、水浅黄と、白と紅《くれない》咲き重なった、矢車草を片袖に、月夜に孔雀《くじゃく》を見るような。
 め[#「め」に傍点]組が刎返《はねかえ》した流汁の溝溜《どぶだまり》もこれがために水澄んで、霞をかけたる蒼空《あおぞら》が、底美しく映るばかり。先祖が乙姫に恋歌して、かかる処に流された、蛙の児よ、いでや、柳の袂に似た、君の袖に縋《すが》れかし。
 妙子は、有名な独逸《ドイツ》文学者、なにがし大学の教授、文学士酒井俊蔵の愛娘である。
 父様《とうさん》は、この家《や》の主人、早瀬主税には、先生で大恩人、且つ御主《おしゅう》に当る。さればこそ、嬢|様《さん》と聞くと斉《ひと》しく、朝から台所で冷酒《ひやざけ》のぐい煽《あお》り、魚屋と茶碗を合わせた、その挙動《ふるまい》魔のごときが、立処《たちどころ》に影を潜めた。
 まだそれよりも内証《ないしょ》なのは、引窓を閉めたため、勝手の暗い……その……誰だか。

       十一

 妙子の手は、矢車の花の色に際立って、温柔《しなやか》な葉の中に、枝をちょいと持替えながら、
「こんなものを持っていますから、こちらから、」
 とまごつくお源に気の毒そう。ふっくりと優しく微笑《ほほえ》み、
「お邪魔をしてね。」
「どういたしまして、もう台なしでございまして、」と雑巾を引掴《ひッつか》んで、
「あれ、お召ものが、」
 と云う内に、吾妻下駄《あずまげた》が可愛く並んで、白足袋薄く、藤色の裾を捌いて、濃いお納戸《なんど》地に、浅黄と赤で、撫子《なでしこ》と水の繻珍《しゅちん》の帯腰、向う屈《かが》みに水瓶《みずがめ》へ、花菫《はなすみれ》の簪《かんざし》と、リボンの色が、蝶々の翼薄黄色に、ちらちらと先ず映って、矢車を挿込むと、五彩の露は一入《ひとしお》である。
「ここに置かして頂戴よ。まあ、お酒の香《におい》がしてねえ、」と手を放すと、揺々《ゆらゆら》となる矢車草より、薫ばかりも玉に染む、顔《かんばせ》酔《え》いて桃に似たり。
「御覧なさい、矢車が酔ってふらふらするわ。」と罪もなく莞爾《にっこり》する。
 お源はどぎまぎ、
「ええ、酒屋の小僧が、ぞんざいだものでございますから。」
「ちょいと、溢《こぼ》したの。やっぱり悪戯《いたずら》な小僧さん? 犬にばっかり弄《からか》っているんでしょう、私ン許《とこ》のも同一《おんなじ》よ。」
 一廉《いっかど》社会観のような口ぶり、説くがごとく言いながら、上に上って、片手にそれまで持っていた、紫の風呂敷包、真四角なのを差置いた。
「お裾が汚れます、お嬢様。」
「いいえ、可《いい》のよ、」
 と褄《つま》は上げても、袖は板の間に敷くのであった。
「あの、お惣菜になすって下さい。」
「どうも恐れ入ります。」
「旨《おいし》くはありませんよ、どうせ、お手製なんですから。」
 少し途切れて、
「お内ですか。」
「はい、」
「主税さんは……あの旦那様は、」
 と言いかけて、急に気が着いたか、
「まあ、どうしたの、暗いのねえ。」
 成程、そこまでは水口の明《あかり》が取れたが、奥へ行く道は暗かった。
「も、仕様がないのでございますよ、ほんとうに、あら、どうしましょう。」
 とお源は飛上って、慌てて引窓を、くるり、かたり。颯《さっ》と明るく虹の幻、娘の肩から矢車草に。
 その時台所へ落着いて顔を出した、主人《あるじ》の主税と、妙子は面《おもて》を見合わせた。
「驚《おど》かして上げましょうと思ったんだけれども。」と、笑って串戯《じょうだん》を言いながら、瓶《かめ》なる花と対丈《ついたけ》に、そこに娘が跪居《ついい》るので、渠《かれ》は謹んで板に片手を支《つ》いたのである。
「驚かしちゃ、私|厭《いや》ですよ。」
「じゃ、なぜそんな水口からなんぞお入んなさいます。ちゃんと玄関へお出迎いをしているじゃありませんか。」
「それでもね、」
 と愛々しく打傾き、
「お惣菜なんか持込むのに、お玄関からじゃ大業ですもの。それに、あの、
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