点]の字、滅多なことは云うもんじゃありません、他《ほか》の事と違うよ、お前、」
「あれ、串戯《じょうだん》じゃねえ。これが嘘なら、私《わっし》の鯛《てえ》[#ルビの「てえ」は底本では「てい」]は場違《ばちげえ》だ。ええ、旦那、河野の本家は静岡で、医者だろうね。そら、御覧《ごろう》じろ、河野ッてえから気がつかなかった。門に大《おおき》な榎《えのき》があって、榎|邸《やしき》と云や、お前《めえ》、興津《おきつ》江尻まで聞えたもんだね。
 今見りゃ、ここを出た客てえのは、榎邸の奥様《おくさん》で、その馬丁の情婦《いろおんな》だ。
 だから私ア、冷かしに行ってやろうと思ったんだ。嘘にもほんとうにも、児《こ》があらあ、児が。ああ、」
 また一口がぶりと遣《や》って、はりはり[#「はりはり」に傍点]を噛《か》んだ歯をすすって、
「ねえ、大勢|小児《こども》がありましょう。」
「南町の学士先生もその一|人《にん》、何でも兄弟は大勢ある。八九人かも知れないよ、いや、ほんとうなら驚いたな。」
「おお、待ちねえ、その先生は幾歳《いくつ》だね。」
「六か、七だ。」
「二十《はたち》とだね、するとその上か、それとも下かね。どっち道その人じゃねえ。何でも馬丁の因果のたねは婦人《おんな》なんだ。いずれ縁附いちゃいるだろうが、これほど確《たしか》な事はねえ。私《わっし》ア特別で心得てるんで、誰も知っちゃいますめえよ。知らぬは亭主ばかりなりじゃねえんだから、御存じは魚屋|惣助《そうすけ》(本名)ばかりなりだ。
 はははは、下郎は口のさがねえもんだ。」
 ぐいと唇を撫でた手で、ポカリと茶碗の蓋《ふた》をした。
「危え、危え、冷かしに行くどころじゃねえ。鰒汁《てっぽう》とこいつだけは、命がけでも留《や》められねえんだから、あの人のお酌でも頂き兼ねねえ。軍医の奥さんにお手のもので、毒薬《いっぷく》装《も》られちゃ大変だ。だが、何だ、旦那も知らねえ顔でいておくんねえ、とかく町内に事なかれだからね。」
「ああ、お前ももうおいででない。」
「行くもんか、行けったってお断りだ。お断り、へへへ、お断り、」
 と茶碗を捻《ひね》くる。
「厭《いや》な人だよ。仕様がないね、さあ、茶碗をお出しなね。」
「おお、」
 と何か考え込んだ、主税が急に顔を上げて、
「もうちっと精《くわ》しくその話を聞かせないか。」
 井戸端か
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