し》へ上る、この男坂の百四段も、見たばかりで、もうもう慄然《ぞっ》とする慄然《ぞっ》とする、」
と重そうな頭《かぶり》を掉《ふ》って、顔を横向きに杖を上げると、尖《さき》がぶるぶる震う。
こなたに腰掛けたまま、胸を伸して、早瀬が何か云おうとした、(構わず休らえ、)と声を懸けそうだったが、夫人が、ト見て、指を弾《はじ》いて禁《と》めたので黙った。
「そんなら帰りに寄りなされ、気をつけて行かっしゃいよ。」
物は言わず、睡《ねむ》るがごとく頷くと、足で足を押動かし、寝ン寝子広き芭蕉の影は、葉がくれに破れて失せた。やがてこの世に、その杖ばかり残るであろう。その杖は、野墓に立てても、蜻蛉《とんぼ》も留まるまい。病人の居たあとしばらくは、餌を飼っても、鳩の寄りそうな景色は無かった。
「お婆さん、」
と早瀬が調子高に呼んだ。
さすがに滅入っていた婆さんも、この若い、威勢の可い声に、蘇生《よみがえ》ったようになって、
「へい、」
「今の、風説《うわさ》ならもう止しっこ。私は見たばかりで胸が痛いのよ。」
と、威《おど》しては可《い》けそうもないので、片手で拝むようにして、夫人は厭々をした。
「いえ、一ツ心当りは無いか、家《うち》を聞いて見ようと思うんです。見物より、その方が肝心ですもの。」
「ああ、そうね。」
「どこか、貸家はあるまいか。」
「へい、無い事もござりませぬが、旦那様方の住まっしゃりますような邸は、この居まわりにはござりませぬ。鷹匠町《たかじょうまち》辺をお聞きなさりましたか、どうでござります。」
「その鷹匠町辺にこそ、御邸ばかりで、僕等の住めそうな家はないのだ。」
「どんなのがお望みでござりまするやら、」
「廉《やす》いのが可《い》い、何でも廉いのが可いんだよ。」
「早瀬さん。」と、夫人が見っともないと圧《おさ》えて云う。
「長屋で可いのよ、長屋々々。」
と構わず、遣るので、また目で叱る。
「へへへ、お幾干《いくら》ばかりなのをお捜しなされまするやら。」
心当りがあるか、ごほりと咳きつつ、甘酒の釜の蔭を膝行《いざ》って出る。
「静岡じゃ、お米は一升|幾干《いくら》だい。」
「ええ。」
「厭よ、後生。」
と婆さんを避《よ》けかたがた、立構えで、夫人が肩を擦寄せると、早瀬は後《うしろ》へ開いて、夫人の肩越に婆さんを見て、
「それとも一円に幾干だね、それから
前へ
次へ
全214ページ中132ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング