論ですね、お前、河野さんの嫁になるんだ。はい、と云うに間違いはありませんが、他《ほか》にもう一人、貴下からお話し下すって、承知をさせて頂きたいものがあるんです。どうでしょう、その者へ御相談下さるわけに参りましょうか。」
「お易い事で。何でごわりまするか、どちらぞ、御親類ででもおあんなさりまするならば、直ぐにこの足で駈着けましても宜しゅう存じまするで。ええ、御姓名、御住所は何とおっしゃる?」
「住居《すまい》は飯田町ですが、」
 と云う時、先生の肩がやや聳《そび》えた。
「早瀬ですよ。」
「御門生。」と、吃驚《びっくり》する。
「掏摸《すり》一件の男です。」と意味ありげに打微笑む。
 礼之進、苦り切った顔色《がんしょく》で、
「へへい、それはまた、どういう次第でごわりまするか、ただ御門生と承りましたが、何ぞ深しき理由でもおありなさりますと云う……」
「理由も何にもありません。早瀬は妙に惚れています。」と澄まして云った、酒井俊蔵は世に聞えたる文学士である。
 道学者はアッと痘痕、目を円《つぶら》かにして口をつぐむ。
「実の親より、当人より、ぞッこん惚れてる奴の意向に従った方が一番間違が無くって宜しい。早瀬がこの縁談を結構だ、と申せば、直ぐに妙を差上げますよ。面倒は入《い》らん。先生が立処《たちどころ》に手を曳《ひ》いて、河野へ連れてお出でなすって構いません。早瀬が不可《いけな》い、と云えば、断然お断りをするまでです。」
 黙ってはいられない。
「しますると、その、」
 と少し顔の色も変えて、
「御門生は、妙子様に……」と、あとは他人でもいささか言いかねて憚《はばか》ったのを、……酒井は平然として、
「惚れていますともさ。同一《ひとつ》家に我儘《わがまま》を言合って一所に育って、それで惚れなければどうかしているんです。もっともその惚方――愛――はですな、兄妹《きょうだい》のようか、従兄妹《いとこ》のようか、それとも師弟のようか、主従《しゅうじゅう》のようか、小説のようか、伝奇のようか、そこは分りませんが、惚れているにゃ違いないのですから、私は、親、伯父、叔母、諸親類、友達、失礼だが、御媒酌人《おなこうど》、そんなものの口に聞いたり、意見に従ったりするよりは、一も二もない、早手廻しに、娘の縁談は、惚れてる男に任せるんです。いかがでしょう、先生、至極妙策じゃありませんか。それ
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