て、臈《ろう》たけた眉が、雲の生際に浮いて見えるように俯向《うつむ》いているから、威勢に怖《お》じて、頭《かしら》も得《え》上げぬのであろう、いや、さもあらん、と思うと……そうでない。酒井先生の令嬢は、笑《えみ》を含んでいるのである。
それは、それは愛々しい、仇気《あどけ》ない微笑《ほほえみ》であったけれども、この時の教頭には、素直に言う事を肯《き》いて、御前《おんまえ》へ侍《さぶら》わぬだけに、人の悪い、与《くみ》し易からざるものがあるように思われた。で、苦い顔をして、
「酒井さん、ここへ来なくちゃ不可《いか》んですよ。」
時に教頭胸を反《そ》らして、卓子《テイブル》をドンと拳《こぶし》で鳴らすと、妙子はつつと勇ましく進んで、差向いに面《おもて》を合わせて、そのふっくりした二重瞼《ふたかわめ》を、臆《おく》する色なく、円く※[#「目+爭」、第3水準1−88−85]《みは》って、
「御用ですか。」
と云った風采、云い知らぬ品威が籠《こも》って、閑耕は思いかけず、はっと照らされて俯向《うつむ》いた。
教場でこそあれ、二人だけで口を利くのは、抑々《そもそも》生れて以来|最初《はじめて》である。が、これは教場以外ではいかなる場合にても、こうであろうも計られぬ。
はて、教頭ほどの者が、こんな訳ではない筈《はず》だが、と更《あらた》めて疑の目を挙げると、脊もすらりとして椅子に居る我を仰ぐよ、酒井の嬢《むすめ》は依然として気高いのである。
「酒井さん……」
声の出処《でどころ》が、倫理を講ずるようには行《ゆ》かぬ。
咽喉《のど》が狂って震えがあるので、えへん! と咳《しわぶ》いて、手巾《ハンケチ》で擦《こす》って、四辺《あたり》を※[#「目+句」、第4水準2−81−91]《みまわ》したが、湯も水も有るのでない、そこで、
「小ウ使いい、」と怒鳴った。
「へ――い、」
と謹んだ返事が響く。教頭はこれに因って、大《おおい》にその威厳を恢復《かいふく》し得て、勢《いきおい》に乗じて、
「貴娘《あなた》に聞く事があるのですが、」
「はい。」
「参謀本部の翻訳をして、まだ学校なども独逸語を持っていますな――早瀬主税――と云う、あれは、貴娘の父様《とうさん》の弟子ですな。」
「ええ、そう…………」
「で、貴娘の御宅に置いて、修業をおさせなすったそうだが、一体あれの幾歳ぐらいの時
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