知らんが、相変らず繁昌《はんじょう》か。」
三十九
小芳は我知らず、(ああ、どうしよう。)と云う瞳が、主税の方へ流るるのを、無理に堪《こら》えて、酒井を瞻《みまも》った顔が震えて、
「蔦吉さんはもう落籍《ひき》ましたそうです。」
と言わせも果てずに、
「(そうです。)は可怪《おかし》い。近所に居ながら、知らんやつがあるか、判然《はっきり》謂《い》え、落籍《ひい》たのか!」
「はい、」と伏目になったトタンに、優しげな睫毛《まつげ》が、(どうかなさいよ。)と、主税の顔へ目配せする。
酒井は、主税を見向きもしないで、悠々とした調子になり、
「そりゃ可い事をした、泥水稼業を留《や》めたのは芽出度い。で、どこに居る、当時は………よ?」
「私はよく存じませんので……あの、どこか深川に居るんですって。」
「深川? 深川と云う人に落籍されたのか、川向うの深川かい。」
「…………。」
「どうだよ、おい、知らない奴があるか。お前、仲が好くって、姉妹《きょうだい》のようだと云ったじゃないか。姉妹分が落籍たのに、その行先が分らない、べら棒があるもんかい。
姉さんとか、小芳さんとか云って、先方《さき》でも落籍《ひき》祝いに、赤飯ぐらい配ったろう、お前食ったろう、そいつを。
蒸立だとか、好い色だとか云って、喜んでよ、こっちからも、※[#「にんべん」、第4水準2−1−21]《にんべん》の切手の五十銭ぐらい祝ったろう。小遣帳に記《つ》いているだろう。その婦《おんな》の行先が知れない奴があるものか。
知らなきゃ馬鹿だ。もっとも、己《おれ》のような素一歩《すいちぶ》と腐合おうと云う料簡方《りょうけんかた》だから、はじめから悧怜《りこう》でないのは知れてるんだ。馬鹿は構わん、どうせ、芸者だ、世間並じゃない。芸者の馬鹿は構わんが、薄情は不可《いか》んな! 薄情は。薄情な奴は俺《おい》ら真平だ。」
「いつ、私が、薄情な、」
と口惜《くや》しく屹《きっ》となる処を、酒井の剣幕が烈《はげし》いので、悄《しお》れて声が霑《うる》んだのである。
「薄情でない! 薄情さ。懇意な婦《おんな》の、居処を知らなけりゃ薄情じゃないか。」
「だって、貴郎《あなた》。だって、先方《さき》でも、つい音信《たより》をしないもんですから、」
「先方《さき》が音信《たより》をしなくっても、お前の薄情は帳消
前へ
次へ
全214ページ中67ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング