て、ついに無い、ものをも言わず、恐れた顔をして、ちょっと睨《にら》んで、そっと上って、開けた障子へ身体《からだ》は入れたが、敷居際へ畏《かしこ》まる。
酒井先生、座敷の真中へぬいと突立ったままで――その時茶がかった庭を、雨戸で消して入《い》り来る綱次に、
「どうだ、色男が糶出《せりだ》したように見えるか。」
とずッと胸を張って見せる。
「私には解りません、姉さんにお見せなさいまし、今に帰りますから、」
「そう目前《めさき》が利かないから、お茶を挽《ひ》くのよ。当節は女学生でも、今頃は内には居ない。ちっと日比谷へでも出かけるが可《い》い。」
「憚様《はばかりさま》、お座敷は宵の口だけですよ。」
と姿見の前から座蒲団をするりと引いて、床の間の横へ直した。
「さあ、早瀬さん。」と、もう一枚。
主税は膝の傍《わき》へ置いたままなり。
友染の羽織を着たのが、店から火鉢を抱えて来て、膝と一所に、お大事のもののように据えると、先生は引跨《ひんまた》ぐ体に胡坐《あぐら》の膝へ挟んで、口の辺《あたり》を一ツ撫でて、
「敷きな、敷きな。」
と主税を見向いた。
「はい、」
とばかりで、その目玉に射られるようで堅くなってどこも見ず、面《おもて》を背けると端《はし》なく、重箪笥《かさねだんす》の前なる姿見。ここで梳《くしけず》る柳の髪は長かろう、その姿見の丈が高い。
三十七
「お敷きなさいなね、貴下《あなた》、此家《ここ》へいらっしゃりゃ、先生も何もありはしません、御遠慮をなさらなくっても可いんですよ。」
と意気、文学士を呑む。この女は、主税が整然《きちん》としているのを、気の毒がるより、むしろ自分の方が、為に窮屈を感ずるので。
その癖、先生には、かえって、遠慮の無い様子で、肩を並べるようにして支膝《つきひざ》で坐りながら、火鉢の灰をならして、手でその縁をスッと扱《しご》く。
「茶を一ツ、熱いのを。」
酒井は今のを聞かない振で、
「それから酒だ。」
綱次は入口の低い襖《ふすま》を振返って、ト拝む風に、雪のような手を敲《たた》く。
「自分で起《た》て。少《わか》いものが、不精を極《き》めるな。」
「厭《いや》ですよ。ちゃんと番をしていなくっては。姉さんに言いつかっているんだから。」
と言いながら、人懐かしげに莞爾《にっこり》して、
「ねえ、早瀬さん。」
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