会の軍用金。諸処から取集めた百有余円を、馴染《なじみ》の会席へ支払いの用があって、夜、モオニングを着て、さて電燈の明《あかる》い電車に乗った。
(アバ大人ですか、ハハハ今日の午後《ひるすぎ》。)と酒井先生方の書生が主税に告げたのと、案ずるに同日であるから、その編上靴は、一日に市中のどのくらいに足跡を印するか料られぬ。御苦労千万と謂わねばならぬ。
 先哲曰く、時は黄金である。そんな隙潰《ひまつぶ》しをしないでも、交際会の会費なら、その場で請取って直ぐに払いを済したら好さそうなものだが、一先ず手許へ引取って、更《あらた》めて夫子自身《ふうしみずから》を労するのは? 知らずや、この勘定の時は、席料なしに、そこの何とか云う姉さんに、茶の給仕をさせて無銭《ただ》で手を握るのだ、と云ったものがある。世には演劇《しばい》の見物の幹事をして、それを縁に、俳優《やくしゃ》と接吻《キス》する貴婦人もあると云うから。
 もっともこれは、嘘であろう。が、会費を衣兜《かくし》にして、電車に乗ったのは事実である。
「ええ、込合いますから御注意を願います。」
 礼之進は提革《さげかわ》に掴《つかま》りながら、人と、車の動揺の都度、なるべく操りのポンチたらざる態度を保って、しこうして、乗合の、肩、頬、耳などの透間から、痘痕《あばた》を散らして、目を配って、鬢《びんずら》、簪《かんざし》、庇《ひさし》、目つきの色々を、膳の上の箸休めの気で、ちびりちびりと独酌の格。ああ、江戸児《えどッこ》はこの味を知るまい、と乗合の婦《おんな》の移香を、楽《たのし》みそうに、歯をスーと遣《や》って、片手で頤《あご》を撫でていたが、車掌のその御注意に、それと心付くと、俄然《がぜん》として、慄然《りつぜん》として、膚《はだ》寒うして、腰が軽い。
 途端に引込《ひっこ》めた、年紀《とし》の若い半纏着《はんてんぎ》の手ッ首を、即座の冷汗と取って置きの膏汗《あぶらあせ》で、ぬらめいた手で、夢中にしっかと引掴《ひッつか》んだ。
 道学先生の徳孤ならず、隣りに掏摸《すり》が居たそうな。
「…………」
 と、わなないて、気が上ずッて、ただ睨《にら》む。
 対手《あいて》は手拭《てぬぐい》も被《かぶ》らない職人体のが、ギックリ、髪の揺れるほど、頭《ず》を下げて、
「御免なすって、」と盗むように哀憐《あわれみ》を乞う目づかいをする。

前へ 次へ
全214ページ中55ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング