来たので、主税は吻《ほっ》と呼吸《いき》を吐《つ》いて、はじめて持扱った三世相を懐中《ふところ》へ始末をすると、壱岐殿坂《いきどのざか》の下口《おりぐち》で、急な不意打。
「お前の許《とこ》でも皆《みんな》健康《たっしゃ》か。」
また冷りとした。内には女中と……自分ばかり、(皆健康か。)は尋常事《ただごと》でない。けれども、よもや、と思うから、その(皆)を僻耳《ひがみみ》であろう、と自分でも疑って、
「はい?」
と、聞直したつもりを、酒井がそのまま聞流してしまったので(さようでございます。)と云う意味になる。
で、安からぬ心地がする。突当りの砲兵工廠《ぞうへい》の夜の光景は、楽天的に視《ながめ》ると、向島の花盛を幻燈で中空へ顕わしたようで、轟々《ごうごう》と轟《とどろ》く響が、吾妻橋を渡る車かと聞なさるるが、悲観すると、煙が黄に、炎が黒い。
通りかかる時、蒸気が真白《まっしろ》な滝のように横ざまに漲《みなぎ》って路を塞いだ。
やがて、水道橋の袂《たもと》に着く――酒井はその雲に駕《が》して、悠々として、早瀬は霧に包まれて、ふらふらして。
無言の間、吹かしていた、香の高い巻莨《まきたばこ》を、煙の絡んだまま、ハタとそこで酒井が棄てると、蒸気は、ここで露になって、ジューと火が消える。
萌黄《もえぎ》の光が、ぱらぱらと暗《やみ》に散ると、炬《きょ》のごとく輝く星が、人を乗せて衝《つ》と外濠《そとぼり》を流れて来た。
電車
三十二
河野から酒井へ申込んだ、その縁談の事の為ではないが、同じこの十二日の夜《よ》、道学者坂田礼之進は、渠《かれ》が、主なる発企者で且つ幹事である処の、男女交際会――またの名、家族懇話会――委《くわ》しく註するまでもない、その向の夫婦が幾組か、一処に相会して、飲んだり、食ったり、饒舌《しゃべ》ったり……と云うと尾籠《びろう》になる。紳士貴婦人が互に相親睦《あいしんぼく》する集会で、談政治に渉《わた》ることは少ないが、宗教、文学、美術、演劇、音楽の品定めがそこで成立つ。現代における思潮の淵源、天堂と食堂を兼備えて、薔薇《しょうび》薫じ星の輝く美的の会合、とあって、おしめ[#「おしめ」に傍点]と襷《たすき》を念頭に置かない催しであるから、留守では、芋が焦げて、小児《こども》が泣く。町内迷惑な……その、男女交際
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