はい》にも、くらわされてしかるべきは自分の方で、仏壇のあるわが家には居たたまらないために、その場から門《かど》を駈け出したは出たとして、知合《ちかづき》にも友だちにも、女房に意見をされるほどの始末で見れば、行き処《どころ》がなかったので、一夜《ひとよ》しのぎに、この木曾谷まで遁げ込んだのだそうでございます、遁げましたなあ。……それに、その細君というのが、はじめ画師《えかき》さんには恋人で、晴れて夫婦になるのには、この学士先生が大層なお骨折りで、そのおかげで思いが叶《かな》ったと申したようなわけだそうで。……遁げ込み場所には屈竟《くっきょう》なのでございました。
時に、弱りものの画師さんの、その深い馴染というのが、もし、何と……お艶様――手前どもへ一人でお泊まりになったその御婦人なんでございます。……ちょいと申し上げておきますが、これは画師さんのあとをたずねて、雪を分けておいでになったのではございません。その間がざっと半月ばかりございました。その間に、ただいま申しました、姦通《まおとこ》騒ぎが起こったのでございます。」
と料理番は一息した。
「そこで……また代官|婆《ばば》に変な癖がございましてな。癖より病で――あるもの知りの方に承りましたのでは、訴訟狂とか申すんだそうで、葱《ねぶか》が枯れたと言っては村役場だ、小児《こども》が睨《にら》んだと言えば交番だ。……派出所だ裁判だと、何でも上沙汰《かみざた》にさえ持ち出せば、我に理があると、それ貴客《あなた》、代官婆だけに思い込んでおりますのでございます。
その、大蒜《にんにく》屋敷の雁股《かりまた》へ掛かります、この街道《かいどう》、棒鼻《ぼうばな》の辻《つじ》に、巌穴《いわあな》のような窪地《くぼち》に引っ込んで、石松という猟師が、小児《がき》だくさんで籠《こ》もっております。四十|親仁《おやじ》で、これの小僧の時は、まだ微禄《びろく》をしません以前の……その婆のとこに下男奉公、女房《かかあ》も女中奉公をしたものだそうで。……婆がえろう家来扱いにするのでございますが、石松猟師も、堅い親仁で、はなはだしく御主人に奉っておりますので。……
宵《よい》の雨が雪になりまして、その年の初雪が思いのほか、夜半《よなか》を掛けて積もりました。山の、猪《しし》、兎《うさぎ》が慌《あわ》てます。猟はこういう時だと、夜更《よふ》けに、のそのそと起きて、鉄砲しらべをして、炉端《ろばた》で茶漬《ちゃづけ》を掻《か》っ食らって、手製《てづくり》の猿《さる》の皮の毛頭巾《けずきん》を被《かぶ》った。筵《むしろ》の戸口へ、白髪《しらが》を振り乱して、蕎麦切色《そばきりいろ》の褌《ふんどし》……いやな奴《やつ》で、とき色の禿《は》げたのを不断まきます、尻端折《しりぱしょ》りで、六十九歳の代官婆が、跣足《はだし》で雪の中に突っ立ちました。(内へ怪《ば》けものが出た、来てくれせえ。)と顔色《がんしょく》、手ぶりで喘《あえ》いで言うので。……こんな時鉄砲は強うございますよ、ガチリ、実弾《たま》をこめました。……旧主人の後室様がお跣足でございますから、石松も素跣足。街道を突っ切って韮《にら》、辣薤《らっきょう》、葱畑《ねぶかばたけ》を、さっさっと、化けものを見届けるのじゃ、静かにということで、婆が出て来ました納戸口《なんどぐち》から入って、中土間へ忍んで、指さされるなりに、板戸の節穴から覗《のぞ》きますとな、――何と、六枚折の屏風《びょうぶ》の裡《なか》に、枕《まくら》を並べて、と申すのが、寝てはいなかったそうでございます。若夫人が緋《ひ》の長襦袢《ながじゅばん》で、掻巻《かいまき》の襟《えり》の肩から辷《すべ》った半身で、画師の膝《ひざ》に白い手をかけて俯向《うつむ》けになりました、背中を男が、撫《な》でさすっていたのだそうで。いつもは、もんぺを穿《は》いて、木綿《もめん》のちゃんちゃんこで居る嫁御が、その姿で、しかもそのありさまでございます。石松は化けもの以上に驚いたに相違ございません。(おのれ、不義もの……人畜生《にんちくしょう》。)と代官婆が土蜘蛛《つちぐも》のようにのさばり込んで、(やい、……動くな、その状《ざま》を一寸でも動いて崩《くず》すと――鉄砲《あれ》だぞよ、弾丸《あれ》だぞよ。)と言う。にじり上がりの屏風の端から、鉄砲の銃口《すぐち》をヌッと突き出して、毛の生えた蟇《ひきがえる》のような石松が、目を光らして狙《ねら》っております。
人相と言い、場合と申し、ズドンとやりかねない勢いでごさいますから、画師さんは面喰《めんく》らったに相違ございますまい。(天罰は立《た》ち処《どころ》じゃ、足四本、手四つ、顔《つら》二つのさらしものにしてやるべ。)で、代官婆は、近所の村方四軒というもの、その足でたたき起こして廻って、石松が鉄砲を向けたままの、そのありさまをさらしました。――夜のあけ方には、派出所の巡査《おまわり》、檀那寺《だんなでら》の和尚《おしょう》まで立ち会わせるという狂い方でございまして。学士先生の若夫人と色男の画師さんは、こうなると、緋鹿子《ひがのこ》の扱帯《しごき》も藁《わら》すべで、彩色《さいしき》をした海鼠《なまこ》のように、雪にしらけて、ぐったりとなったのでございます。
男はとにかく、嫁はほんとうに、うしろ手に縛《くく》りあげると、細引を持ち出すのを、巡査《おまわり》が叱《しか》りましたが、叱られるとなお吼《たけ》り立って、たちまち、裁判所、村役場、派出所も村会も一所にして、姦通《かんつう》の告訴をすると、のぼせ上がるので、どこへもやらぬ監禁同様という趣で、ひとまず檀那寺まで引き上げることになりましたが、活《い》き証拠《じょうこ》だと言い張って、嫁に衣服《きもの》を着せることを肯《き》きませんので、巡査《おまわり》さんが、雪のかかった外套《がいとう》を掛けまして、何と、しかし、ぞろぞろと村の女|小児《こども》まであとへついて、寺へ参ったのでございますが。」
境はききつつ、ただ幾度《いくたび》も歎息《たんそく》した。
「――遁《に》がしたのでございましょうな。画師さんはその夜のうちに、寺から影をかくしました。これはそうあるべきでございます。――さて、聞きますれば、――伜《せがれ》の親友、兄弟同様の客じゃから、伜同様に心得る。……半年あまりも留守を守ってさみしく一人で居ることゆえ、嫁女や、そなたも、伜と思うて、つもる話もせいよ、と申して、身じまいをさせて、衣《き》ものまで着かえさせ、寝る時は、にこにこ笑いながら、床を並べさせたのだと申すことで。……嫁御はなるほど、わけしりの弟分の膝に縋《すが》って泣きたいこともありましたろうし、芸妓《げいしゃ》でしくじるほどの画師さんでございます、背中を擦《さす》るぐらいはしかねますまい、……でございますな。
代官婆の憤り方をお察しなさりとう存じます。学士先生は電報で呼ばれました。何と宥《なだ》めても承知をしません。ぜひとも姦通の訴訟を起こせ。いや、恥も外聞もない、代官といえば帯刀じゃ。武士たるものは、不義ものを成敗《せいばい》するはかえって名誉じゃ、とこうまで間違っては事面倒で。たって、裁判沙汰にしないとなら、生きておらぬ。咽喉笛《のどぶえ》鉄砲じゃ、鎌腹《かまばら》じゃ、奈良井川の淵《ふち》を知らぬか。……桔梗ヶ池《ききょうがいけ》へ身を沈める……こ、こ、この婆《ばばあ》め、沙汰の限りな、桔梗ヶ池へ沈めますものか、身投げをしようとしたら、池が投げ出しましょう。」
と言って、料理番は苦笑した。
「また、今時に珍しい、学校でも、倫理、道徳、修身の方を御研究もなされば、お教えもなさいます、学士は至っての御孝心。かねて評判な方で、嫁御をいたわる傍《はた》の目には、ちと弱すぎると思うほどなのでございますから、困《こう》じ果てて、何とも申しわけも面目《めんぼく》もなけれども、とにかく一度、この土地へ来てもらいたい。万事はその上で。と言う――学士先生から画師《えかき》さんへのお頼みでございます。
さて、これは決闘状《はたしじょう》より可恐《おそろ》しい。……もちろん、村でも不義ものの面《つら》へ、唾《つば》と石とを、人間の道のためとか申して騒ぐ方《かた》が多い真中《まんなか》でございますから。……どの面さげて画師さんが奈良井へ二度面がさらされましょう、旦那《だんな》。」
「これは何と言われても来られまいなあ。」
「と言って、学士先生との義理合いでは来ないわけにはまいりますまい。ところで、その画師さんは、その時、どこに居たと思《おぼ》し召《め》します。……いろのことから、怪《け》しからん、横頬《よこぞっぽ》を撲《は》ったという細君の、袖《そで》のかげに、申しわけのない親御たちのお位牌《いはい》から頭をかくして、尻《しり》も足もわなわなと震えていましたので、弱った方でございます。……必ず、連れて参ります――と代官|婆《ばば》に、誓って約束をなさいまして、学士先生は東京へ立たれました。
その上京中。その間のことなのでございます、――柳橋の蓑吉《みのきち》姉《ねえ》さん……お艶様が……ここへお泊まりになりましたのは。……」
六
「――どんな用事の御都合にいたせ、夜中《やちゅう》、近所が静まりましてから、お艶様が、おたずねになろうというのが、代官婆の処《ところ》と承っては、一人ではお出し申されません。ただ道だけ聞けば、とのことでございましたけれども、おともが直接《じか》について悪ければ、垣根《かきね》、裏口にでもひそみまして、内々守って進じようで……帳場が相談をしまして、その人選に当たりましたのが、この、ふつつかな私《てまい》なんでございました。……
お支度《したく》がよろしくばと、私《てまい》、これへ……このお座敷へ提灯《ちょうちん》を持って伺いますと……」
「ああ、二つ巴《どもえ》の紋のだね。」と、つい誘われるように境が言った。
「へい。」
と暗く、含むような、頤《おとがい》で返事を吸って、
「よく御存じで。」
「二度まで、湯殿に点《つ》いていて、知っていますよ。」
「へい、湯殿に……湯殿に提灯を点《つ》けますようなことはございませんが、――それとも、へーい。」
この様子では、今しがた庭を行く時、この料理番とともに提灯が通ったなどとは言い出せまい。境は話を促した。
「それから。」
「ちと変な気がいたしますが。――ええ、ざっとお支度済みで、二度めの湯上がりに薄化粧をなすった、めしものの藍鼠《あいねずみ》がお顔の影に藤色《ふじいろ》になって見えますまで、お色の白さったらありません、姿見の前で……」
境が思わず振り返ったことは言うまでもない。
「金の吸口《くち》で、烏金《しゃくどう》で張った煙管《きせる》で、ちょっと歯を染めなさったように見えます。懐紙《かいし》をな、眉《まゆ》にあてて私《てまい》を、おも長に御覧なすって、
――似合いますか。――」
「むむ、む。」と言う境の声は、氷を頬張《ほおば》ったように咽喉《のど》に支《つか》えた。
「畳のへりが、桔梗《ききょう》で白いように見えました。
(ええ、勿体ないほどお似合いで。)と言うのを聞いて、懐紙をおのけになると、眉のあとがいま剃立《そりた》ての真青《まっさお》で。……(桔梗ヶ池の奥様とは?)――(お姉妹《きょうだい》……いや一倍お綺麗《きれい》で)と罰《ばち》もあたれ、そう申さずにはおられなかったのでございます。
ここをお聞きなさいまし。」……
(お艶さん、どうしましょう。)
「雪がちらちら雨まじりで降る中を、破れた蛇目傘《じゃのめ》で、見すぼらしい半纏《はんてん》で、意気にやつれた画師さんの細君が、男を寝取った情婦《おんな》とも言わず、お艶様――本妻が、その体《てい》では、情婦《いろ》だって工面《くめん》は悪うございます。目を煩《わず》らって、しばらく親許《おやもと》へ、納屋《なや》同然な二階借りで引き籠《こ》もって、内職に、娘子供に長唄《ながうた》なんか、さ
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