らって暮らしていなさるところへ、思い余って、細君が訪ねたのでございます。」
(お艶さん、私《わたし》はそう存じます。私が、貴女《あなた》ほどお美しければ、「こんな女房がついています。何の夫《やど》が、木曾街道《きそかいどう》の女なんぞに。」と姦通《まおとこ》呼ばわりをするその婆《ばばあ》に、そう言ってやるのが一番早分りがすると思います。)(ええ、何よりですともさ。それよりか、なおその上に、「お妾《めかけ》でさえこのくらいだ。」と言って私《わたし》を見せてやります方が、上になお奥さんという、奥行があってようございます。――「奥さんのほかに、私ほどのいろがついています。田舎《いなか》で意地ぎたなをするもんですか。」婆《ばばあ》にそう言ってやりましょうよ。そのお嫁さんのためにも。)――
「――あとで、お艶様の、したためもの、かきおきなどに、この様子が見えることに、何ともどうも、つい立ち至ったのでございまして。……これでございますから、何の木曾の山猿《やまざる》なんか。しかし、念のために土地の女の風俗を見ようと、山王様|御参詣《ごさんけい》は、その下心だったかとも存じられます。……ところを、桔梗ヶ池の、凄《すご》い、美しいお方のことをおききなすって、これが時々人目にも触れるというので、自然、代官婆の目にもとまっていて、自分の容色《きりょう》の見劣りがする段《ひ》には、美しさで勝つことはできない、という覚悟だったと思われます。――もっとも西洋|剃刀《かみそり》をお持ちだったほどで。――それでいけなければ、世の中に煩《うるさ》い婆《ばばあ》、人だすけに切っちまう――それも、かきおきにございました。
雪道を雁股《かりまた》まで、棒端《ぼうばな》をさして、奈良井川の枝流れの、青白いつつみを参りました。氷のような月が皎々《こうこう》と冴《さ》えながら、山気が霧に凝って包みます。巌石《がんせき》、がらがらの細谿川《ほそたにがわ》が、寒さに水涸《みずが》れして、さらさらさらさら、……ああ、ちょうど、あの音、……洗面所の、あの音でございます。」
「ちょっと、あの水口を留めて来ないか、身体《からだ》の筋々へ沁《し》み渡るようだ。」
「御同然でございまして……ええ、しかし、どうも。」
「一人じゃいけないかね。」
「貴方様《あなたさま》は?」
「いや、なに、どうしたんだい、それから。」
「岩と岩に、土橋が架《か》かりまして、向うに槐《えんじゅ》の大きいのが枯れて立ちます。それが危なかしく、水で揺れるように月影に見えました時、ジイと、私《てまい》の持ちました提灯《ちょうちん》の蝋燭《ろうそく》が煮えまして、ぼんやり灯《ひ》を引きます。(暗くなると、巴《ともえ》が一つになって、人魂《ひとだま》の黒いのが歩行《ある》くようね。)お艶様の言葉に――私《てまい》、はッとして覗《のぞ》きますと、不注意にも、何にも、お綺麗《きれい》さに、そわつきましたか、ともしかけが乏しくなって、かえの蝋燭が入れてございません。――おつき申してはおります、月夜だし、足許《あしもと》に差支《さしつか》えはございませんようなものの、当館の紋の提灯は、ちょっと土地では幅が利きます。あなたのおためにと思いまして、道はまだ半町足らず、つい一っ走りで、駈《か》け戻りました。これが間違いでございました。」
声も、言《ことば》も、しばらく途絶えた。
「裏土塀《うらどべい》から台所口へ、……まだ入りませんさきに、ドーンと天狗星《てんぐぼし》の落ちたような音がしました。ドーンと谺《こだま》を返しました。鉄砲でございます。」
「…………」
「びっくりして土手へ出ますと、川べりに、薄い銀のようでございましたお姿が見えません。提灯も何も押《お》っ放《ぽ》り出して、自分でわッと言って駈《か》けつけますと、居処《いどころ》が少しずれて、バッタリと土手っ腹の雪を枕《まくら》に、帯腰が谿川の石に倒れておいででした。(寒いわ。)と現《うつつ》のように、(ああ、冷たい。)とおっしゃると、その唇《くちびる》から糸のように、三条《みすじ》に分かれた血が垂れました。
――何とも、かとも、おいたわしいことに――裾《すそ》をつつもうといたします、乱れ褄《づま》の友染《ゆうぜん》が、色をそのままに岩に凍りついて、霜の秋草に触《さわ》るようだったのでございます。――人も立ち会い、抱き起こし申す縮緬《ちりめん》が、氷でバリバリと音がしまして、古襖《ふるぶすま》から錦絵《にしきえ》を剥《は》がすようで、この方が、お身体《からだ》を裂く思いがしました。胸に溜《た》まった血は暖かく流れましたのに。――
撃ちましたのは石松で。――親仁《おやじ》が、生計《くらし》の苦しさから、今夜こそは、どうでも獲《え》ものをと、しとぎ[#「しとぎ」に傍点]餅《もち》で山の神を祈って出ました。玉味噌《たまみそ》を塗《なす》って、串《くし》にさして焼いて持ちます、その握飯には、魔が寄ると申します。がりがり橋という、その土橋にかかりますと、お艶様の方では人が来るのを、よけようと、水が少ないから、つい川の岩に片足おかけなすった。桔梗ヶ池《ききょうがいけ》の怪しい奥様が、水の上を横に伝うと見て、パッと臥打《ふしう》ちに狙いをつけた。俺《おれ》は魔を退治たのだ、村方のために。と言って、いまもって狂っております。――
旦那《だんな》、旦那、旦那、提灯が、あれへ、あ、あの、湯どのの橋から、……あ、あ、ああ、旦那、向うから、私《てまい》が来ます、私《てまい》とおなじ男が参ります。や、並んで、お艶様が。」
境も歯の根をくいしめて、
「しっかりしろ、可恐《おそろ》しくはない、可恐しくはない。……怨《うら》まれるわけはない。」
電燈の球《たま》が巴になって、黒くふわりと浮くと、炬燵《こたつ》の上に提灯がぼうと掛かった。
「似合いますか。」
座敷は一面の水に見えて、雪の気はいが、白い桔梗の汀《みぎわ》に咲いたように畳に乱れ敷いた。
底本:「現代日本文学館3 幸田露伴・泉鏡花」文藝春秋
1968(昭和43)年10月1日第1刷
底本の親本:「鏡花全集」岩波書店
初出:「苦楽」
1924(大正13)年5月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:真先芳秋
校正:鈴木厚司
2001年6月7日公開
2005年11月24日修正
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