鴨居《かもい》に、すらすらと丈《たけ》が伸びた。
 境は胸が飛んで、腰が浮いて、肩が宙へ上がった。ふわりと、その婦《おんな》の袖《そで》で抱き上げられたと思ったのは、そうでない、横に口に引き銜《くわ》えられて、畳を空《くう》に釣《つ》り上げられたのである。
 山が真黒になった。いや、庭が白いと、目に遮《さえぎ》った時は、スッと窓を出たので、手足はいつか、尾鰭《おひれ》になり、我はぴちぴちと跳《は》ねて、婦《おんな》の姿は廂《ひさし》を横に、ふわふわと欄間の天人のように見えた。
 白い森も、白い家も、目の下に、たちまちさっと……空高く、松本城の天守をすれすれに飛んだように思うと、水の音がして、もんどり打って池の中へ落ちると、同時に炬燵《こたつ》でハッと我に返った。
 池におびただしい羽音が聞こえた。
 この案山子《かかし》になど追えるものか。
 バスケットの、蔦《つた》の血を見るにつけても、青い呼吸《いき》をついてぐったりした。
 廊下へ、しとしとと人の音がする。ハッと息を引いて立つと、料理番が膳《ぜん》に銚子《ちょうし》を添えて来た。
「やあ、伊作さん。」
「おお、旦那《だんな》。」

      四

「昨年のちょうど今ごろでございました。」
 料理番はひしと、身を寄せ、肩をしめて話し出した。
「今年は今朝から雪になりましたが、そのみぎりは、忘れもしません、前日雪が降りました。積もり方は、もっと多かったのでございます。――二時ごろに、目の覚《さ》めますような御婦人客が、ただお一方《ひとかた》で、おいでになったのでございます。――目の覚めるようだと申しましても派手ではありません。婀娜《あだ》な中に、何となく寂しさのございます、二十六七のお年ごろで、高等な円髷《まるまげ》でおいででございました。――御容子《ごようす》のいい、背のすらりとした、見立ての申し分のない、しかし奥様と申すには、どこか媚《なま》めかしさが過ぎております。そこは、田舎《いなか》ものでも、大勢お客様をお見かけ申しておりますから、じきにくろうと衆《しゅ》だと存じましたのでございまして、これが柳橋の蓑吉《みのきち》さんという姐《ねえ》さんだったことが、後に分かりました。宿帳の方はお艶様《つやさま》でございます。
 その御婦人を、旦那――帳場で、このお座敷へ御案内申したのでございます。
 風呂《ふろ》がお好きで……もちろん、お嫌《いや》な方もたんとございますまいが、あの湯へ二度、お着きになって、すぐと、それに夜分に一度、お入りなすったのでございます――都合で、新館の建出しは見合わせておりますが、温泉ごのみに石で畳《たた》みました風呂は、自慢でございまして、旧の二階三階のお客様にも、ちと遠うございますけれども、お入りを願っておりましたところが――実はその、時々、不思議なことがありますので、このお座敷も同様にしばらく使わずにおきましたのを、旦那のような方に試みていただけば、おのずと変なこともなくなりましょうと、相談をいたしまして、申すもいかがでございますが、今日《こんにち》久しぶりで、湧《わ》かしも使いもいたしましたような次第《わけ》なのでございます。
 ところで、お艶様、その御婦人でございますが、日のうち一風呂お浴びになりますと、(鎮守様のお宮は、)と聞いて、お参詣《まいり》なさいました。贄川街道《にえがわかいどう》よりの丘の上にございます。――山王様のお社《やしろ》で、むかし人身|御供《ごくう》があがったなどと申し伝えてございます。森々《しんしん》と、もの寂しいお社で。……村社はほかにもございますが、鎮守と言う、お尋ねにつけて、その儀を帳場で申しますと……道を尋ねて、そこでお一人でおのぼりなさいました。目を少々お煩いのようで、雪がきらきらして疼《いた》むからと言って、こんな土地でございます、ほんの出来あいの黒い目金を買わせて、掛けて、洋傘《こうもり》を杖《つえ》のようにしてお出掛けで。――これは鎮守様へ参詣《さんけい》は、奈良井宿一統への礼儀|挨拶《あいさつ》というお心だったようでございます。
 無事に、まずお帰りなすって、夕飯の時、お膳《ぜん》で一口あがりました。――旦那の前でございますが、板前へと、御丁寧にお心づけを下すったものでございますから私《てまい》……ちょいと御挨拶に出ました時、こういうおたずねでございます――お社へお供物《くもつ》にきざ柿《がき》と楊枝《ようじ》とを買いました、……石段下のそこの小店のお媼《ばあ》さんの話ですが、山王様の奥が深い森で、その奥に桔梗ヶ原《ききょうがはら》という、原の中に、桔梗の池というのがあって、その池に、お一方《ひとり》、お美しい奥様がいらっしゃると言うことですが、ほんとうですか。――
 ――まったくでございます、と皆まで承わらないで、私《てまい》が申したのでございます。
 論より証拠、申して、よいか、悪いか存じませんが、現に私《てまい》が一度見ましたのでございます。」
「…………」
「桔梗ヶ原とは申しますが、それは、秋草は綺麗《きれい》に咲きます、けれども、桔梗ばかりというのではございません。ただその大池の水が真桔梗《まっききょう》の青い色でございます。桔梗はかえって、白い花のが見事に咲きますのでございまして。……
 四年あとになりますが、正午《まひる》というのに、この峠向うの藪原宿《やぶはらじゅく》から火が出ました。正午《しょううま》の刻《こく》の火事は大きくなると、何国《いずこ》でも申しますが、全く大焼けでございました。
 山王様の丘へ上がりますと、一目に見えます。火の手は、七条《ななすじ》にも上がりまして、ぱちぱちぱんぱんと燃える音が手に取るように聞こえます。……あれは山間《やまあい》の滝か、いや、ぽんぷの水の走るのだと申すくらい。この大南風《おおみなみ》の勢いでは、山火事になって、やがて、ここもとまで押し寄せはしまいかと案じますほどの激しさで、駈《か》けつけるものは駈けつけます、騒ぐものは騒ぐ。私《てまい》なぞは見物の方で、お社《やしろ》前は、おなじ夥間《なかま》で充満《いっぱい》でございました。
 二百十日の荒れ前で、残暑の激しい時でございましたから、ついつい少しずつお社の森の中へ火を見ながら入りましたにつけて、不断は、しっかり行くまじきとしてある処《ところ》ではございますが、この火の陽気で、人の気の湧《わ》いている場所から、深いといっても半町とはない。大丈夫と。ところで、私《てまい》陰気もので、あまり若衆《わかしゅ》づきあいがございませんから、誰を誘うでもあるまいと、杉檜《すぎひのき》の森々としました中を、それも、思ったほど奥が深くもございませんで、一面の草花。……白い桔梗《ききょう》でへりを取った百畳敷ばかりの真青《まっさお》な池が、と見ますと、その汀《みぎわ》、ものの二……三……十間とはない処に……お一人、何ともおうつくしい御婦人が、鏡台を置いて、斜めに向かって、お化粧をなさっていらっしゃいました。
 お髪《ぐし》がどうやら、お召ものが何やら、一目見ました、その時の凄《すご》さ、可恐《おそろ》しさと言ってはございません。ただいま思い出しましても御酒《ごしゅ》が氷になって胸へ沁《し》みます。ぞっとします。……それでいてそのお美しさが忘れられません。勿体《もったい》ないようでございますけれども、家のないもののお仏壇に、うつしたお姿と存じまして、一日でも、この池の水を視《なが》めまして、その面影《おもかげ》を思わずにはおられませんのでございます。――さあ、その時は、前後も存ぜず、翼《はね》の折れた鳥が、ただ空から落ちるような思いで、森を飛び抜けて、一目散に、高い石段を駈け下りました。私《てまい》がその顔の色と、怯《おび》えた様子とてはなかったそうでございましてな。……お社前の火事見物が、一雪崩《ひとなだれ》になって遁《に》げ下《お》りました。森の奥から火を消すばかり冷たい風で、大蛇《だいじゃ》がさっと追ったようで、遁げた私《てまい》は、野兎《のうさぎ》の飛んで落ちるように見えたということでございまして。
 とこの趣を――お艶様、その御婦人に申しますと、――そうしたお方を、どうして、女神様《おんながみさま》とも、お姫様とも言わないで、奥さまと言うんでしょう。さ、それでございます。私《てまい》はただ目が暗んでしまいましたが、前々《ぜんぜん》より、ふとお見上げ申したものの言うのでは、桔梗の池のお姿は、眉《まゆ》をおとしていらっしゃりまするそうで……」
 境はゾッとしながら、かえって炬燵《こたつ》を傍《わき》へ払った。
「どなたの奥方とも存ぜずに、いつとなくそう申すのでございまして……旦那。――お艶様に申しますと、じっとお聞きなすって――だと、その奥さまのお姿は、ほかにも見た方がありますか、とおっしゃいます――ええ、月の山の端《は》、花の麓路《ふもとじ》、螢《ほたる》の影、時雨《しぐれ》の提灯《ちょうちん》、雪の川べりなど、随分村方でも、ちらりと拝んだものはございます。――お艶様はこれをきいて、猪口《ちょく》を下に置いて、なぜか、しょんぼりとおうつむきなさいました。――
 ――ところで旦那……その御婦人が、わざわざ木曾のこの山家《やまが》へ一人旅をなされた、用事がでございまする。」

      五

「ええ、その時、この、村方で、不思議千万な、色出入り、――変な姦通《まおとこ》事件がございました。
 村入りの雁股《かりまた》と申す処《ところ》に(代官|婆《ばば》)という、庄屋《しょうや》のお婆《ばあ》さんと言えば、まだしおらしく聞こえますが、代官婆。……渾名《あだな》で分かりますくらいおそろしく権柄《けんべい》な、家の系図を鼻に掛けて、俺《おら》が家はむかし代官だぞよ、と二言めには、たつみ上がりになりますので。その了簡《りょうけん》でございますから、中年から後家になりながら、手一つで、まず……伜《せがれ》どのを立派に育てて、これを東京で学士先生にまで仕立てました。……そこで一頃《ひところ》は東京|住居《ずまい》をしておりましたが、何でも一旦《いったん》微禄《びろく》した家を、故郷《ふるさと》に打《ぶ》っ開《ぱだ》けて、村中の面《つら》を見返すと申して、估券《こけん》潰《つぶ》れの古家を買いまして、両三年|前《ぜん》から、その伜の学士先生の嫁御、近頃で申す若夫人と、二人で引き籠もっておりますが。……菜大根、茄子《なすび》などは料理に醤油《したじ》が費《つい》え、だという倹約で、葱《ねぶか》、韮《にら》、大蒜《にんにく》、辣薤《らっきょう》と申す五|薀《うん》の類《たぐい》を、空地《あきち》中に、植え込んで、塩で弁ずるのでございまして。……もう遠くからぷんと、その家が臭《にお》います。大蒜屋敷の代官婆。……
 ところが若夫人、嫁御というのが、福島の商家の娘さんで学校をでた方だが、当世に似合わないおとなしい優《やさ》しい、ちと内輪すぎますぐらい。もっともこれでなくっては代官婆と二人住居はできません。……大蒜ばなれのした方《かた》で、鋤《すき》にも、鍬《くわ》にも、連尺にも、婆どのに追い使われて、いたわしいほどよく辛抱なさいます。
 霜月の半ば過ぎに、不意に東京から大蒜屋敷へお客人がございました。学士先生のお友だちで、この方はどこへも勤めてはいなさらない、もっとも画師《えかき》だそうでございますから、きまった勤めとてはございますまい。学士先生の方は、東京のある中学校でれっきとした校長さんでございますが。――
 で、その画師さんが、不意に、大蒜屋敷に飛び込んで参ったのは、ろくに旅費も持たずに、東京から遁《に》げ出して来たのだそうで。……と申しますのは――早い話が、細君がありながら、よそに深い馴染《なじみ》が出来ました。……それがために、首尾も義理も世の中は、さんざんで、思い余って細君が意見をなすったのを、何を! と言って、一つ横頬《よこぞっぽ》を撲《くら》わしたはいいが、御先祖、お両親《ふたおや》の位牌《い
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