ような白粉《おしろい》の香がする。
「婦人《おんな》だ」
 何しろ、この明りでは、男客にしろ、一所に入ると、暗くて肩も手も跨《また》ぎかねまい。乳に打着《ぶつ》かりかねまい。で、ばたばたと草履《ぞうり》を突っ掛けたまま引き返した。
「もう、お上がりになりまして?」と言う。
 通いが遠い。ここで燗《かん》をするつもりで、お米がさきへ銚子《ちょうし》だけ持って来ていたのである。
「いや、あとにする。」
「まあ、そんなにお腹《なか》がすいたんですの。」
「腹もすいたが、誰かお客が入っているから。」
「へい、……こっちの湯どのは、久しく使わなかったのですが、あの、そう言っては悪うございますけど、しばらくぶりで、お掃除《そうじ》かたがた旦那様《だんなさま》に立てましたのでございますから、……あとで頂きますまでも、……あの、まだどなたも。」
「かまやしない。私はゆっくりでいいんだが、婦人の客のようだったぜ。」
「へい。」
 と、おかしなベソをかいた顔をすると、手に持つ銚子が湯沸しにカチカチカチと震えたっけ、あとじさりに、ふいと立って、廊下に出た。一度ひっそり跫音《あしおと》を消すや否や、けたたましい音を、すたんと立てて、土間の板をはたはたと鳴らして駈《か》け出した。
 境はきょとんとして、
「何だい、あれは……」
 やがて膳《ぜん》を持って顕《あら》われたのが……お米でない、年増《としま》のに替わっていた。
「やあ、中二階のおかみさん。」
 行商人と、炬燵《こたつ》で睦《むつ》まじかったのはこれである。
「御亭主《ごていしゅ》はどうしたい。」
「知りませんよ。」
「ぜひ、承りたいんだがね。」
 半ば串戯《じょうだん》に、ぐッと声を低くして、
「出るのかい……何か……あの、湯殿へ……まったく?」
「それがね、旦那、大笑いなんでございますよ。……どなたもいらっしゃらないと思って、申し上げましたのに、御婦人の方が入っておいでだって、旦那がおっしゃったと言うので、米ちゃん、大変な臆病《おくびょう》なんですから。……久しくつかいません湯殿ですから、内のお上さんが、念のために、――」
「ああそうか、……私はまた、ちょっと出るのかと思ったよ。」
「大丈夫、湯どのへは出ませんけれど、そのかわりお座敷へはこんなのが、ね、貴方《あなた》。」
「いや、結構。」
 お酌《しゃく》はこの方が、けっく飲める。
 夜は長い、雪はしんしんと降り出した。床を取ってから、酒をもう一度、その勢いでぐっすり寝よう。晩飯《ばん》はいい加減で膳を下げた。
 跫音が入り乱れる。ばたばたと廊下へ続くと、洗面所の方へ落ち合ったらしい。ちょろちょろと水の音がまた響き出した。男の声も交じって聞こえる。それが止《や》むと、お米が襖《ふすま》から円《まる》い顔を出して、
「どうぞ、お風呂へ。」
「大丈夫か。」
「ほほほほ。」
 とちとてれたように笑うと、身を廊下へ引くのに、押し続いて境は手拭《てぬぐい》を提《さ》げて出た。
 橋がかりの下り口に、昨夜帳場に居た坊主頭の番頭と、女中|頭《がしら》か、それとも女房かと思う老けた婦《おんな》と、もう一人の女中とが、といった形に顔を並べて、一団《ひとかたまり》になってこなたを見た。そこへお米の姿が、足袋《たび》まで見えてちょこちょこと橋がかりを越えて渡ると、三人の懐《ふところ》へ飛び込むように一団《ひとかたまり》。
「御苦労様。」
 わがために、見とどけ役のこの人数で、風呂を検《しら》べたのだと思うから声を掛けると、一度に揃《そろ》ってお時儀をして、屋根が萱《かや》ぶきの長土間に敷いた、そのあゆみ板を渡って行く。土間のなかばで、そのおじやのかたまりのような四人の形が暗くなったのは、トタンに、一つ二つ電燈がスッと息を引くように赤くなって、橋がかりのも洗面所のも一齊《いっせい》にパッと消えたのである。
 と胸を吐《つ》くと、さらさらさらさらと三筋に……こう順に流れて、洗面所を打つ水の下に、さっきの提灯《ちょうちん》が朦朧《もうろう》と、半ば暗く、巴《ともえ》を一つ照らして、墨でかいた炎か、鯰《なまず》の跳《は》ねたか、と思う形に点《とも》れていた。
 いまにも電燈が点《つ》くだろう。湯殿口へ、これを持って入る気で、境がこごみざまに手を掛けようとすると、提灯がフッと消えて見えなくなった。
 消えたのではない。やっぱりこれが以前のごとく、湯殿の戸口に点いていた。これはおのずから雫《しずく》して、下の板敷の濡《ぬ》れたのに、目の加減で、向うから影が映《さ》したものであろう。はじめから、提灯がここにあった次第《わけ》ではない。境は、斜めに影の宿った水中の月を手に取ろうとしたと同じである。
 爪《つま》さぐりに、例の上がり場へ……で、念のために戸口に寄ると、息が絶えそうに寂寞《ひっそり》しながら、ばちゃんと音がした。ぞッと寒い。湯気が天井から雫になって点滴《したた》るのではなしに、屋根の雪が溶けて落ちるような気勢《けはい》である。
 ばちゃん、……ちゃぶりと微《かす》かに湯が動く。とまた得ならず艶《えん》な、しかし冷たい、そして、におやかな、霧に白粉《おしろい》を包んだような、人膚《ひとはだ》の気がすッと肩に絡《まつ》わって、頸《うなじ》を撫《な》でた。
 脱ぐはずの衣紋《えもん》をかつしめて、
「お米さんか。」
「いいえ。」
 と一呼吸《ひといき》間《ま》を置いて、湯どのの裡《なか》から聞こえたのは、もちろんわが心がわが耳に響いたのであろう。――お米でないのは言うまでもなかったのである。
 洗面所の水の音がぴったりやんだ。
 思わず立ち竦《すく》んで四辺《あたり》を見た。思い切って、
「入りますよ、御免。」

「いけません。」
 と澄みつつ、湯気に濡《ぬ》れ濡《ぬ》れとした声が、はっきり聞こえた。

「勝手にしろ!」
 我を忘れて言った時は、もう座敷へ引き返していた。
 電燈は明るかった。巴の提灯はこの光に消された。が、水は三筋、さらにさらさらと走っていた。
「馬鹿にしやがる。」
 不気味より、凄《すご》いより、なぶられたような、反感が起こって、炬燵《こたつ》へ仰向けにひっくり返った。
 しばらくして、境が、飛び上がるように起き直ったのは、すぐ窓の外に、ざぶり、ばちゃばちゃばちゃ、ばちゃ、ちゃッと、けたたましく池の水の掻《か》き攪《みだ》さるる音を聞いたからであった。
「何だろう。」
 ばちゃばちゃばちゃ、ちゃッ。
 そこへ、ごそごそと池を廻って響いて来た。人の来るのは、なぜか料理番だろうと思ったのは、この池の魚《うお》を愛惜すると、聞いて知ったためである。……
「何だい、どうしたんです。」
 雨戸を開けて、一面の雪の色のやや薄い処《ところ》に声を掛けた。その池も白いまで水は少ないのであった。

      三

「どっちです、白鷺《しらさぎ》かね、五位鷺《ごいさぎ》かね。」
「ええ――どっちもでございますな。両方だろうと思うんでございますが。」
 料理番の伊作は来て、窓下の戸際《とぎわ》に、がッしり腕組をして、うしろ向きに立って言った。
「むこうの山口の大林から下りて来るんでございます。」
 言《ことば》の中にも顕《あら》われる、雪の降りやんだ、その雲の一方は漆《うるし》のごとく森が黒い。
「不断のことではありませんが、……この、旦那《だんな》、池の水の涸《か》れるところを狙《ねら》うんでございます。鯉《こい》も鮒《ふな》も半分|鰭《ひれ》を出して、あがきがつかないのでございますから。」
「怜悧《りこう》な奴《やつ》だね。」
「馬鹿な人間は困っちまいます――魚《うお》が可哀相《かわいそう》でございますので……そうかと言って、夜一夜《よっぴて》、立番をしてもおられません。旦那、お寒うございます。おしめなさいまし。……そちこち御註文《ごちゅうもん》の時刻でございますから、何か、不手際《ふてぎわ》なものでも見繕って差し上げます。」
「都合がついたら、君が来て一杯、ゆっくりつき合ってくれないか。――私は夜ふかしは平気だから。一所に……ここで飲んでいたら、いくらか案山子《かかし》になるだろう。……」
「――結構でございます。……もう台所は片附きました、追ッつけ伺います。――いたずらな餓鬼どもめ。」
 と、あとを口こごとで、空を睨《にら》みながら、枝をざらざらと潜《くぐ》って行く。
 境は、しかし、あとの窓を閉めなかった。もちろん、ごく細目には引いたが。――実は、雪の池のここへ来て幾羽の鷺の、魚《うお》を狩る状《さま》を、さながら、炬燵で見るお伽話《とぎばなし》の絵のように思ったのである。すわと言えば、追い立つるとも、驚かすとも、その場合のこととして……第一、気もそぞろなことは、二度まで湯殿の湯の音は、いずれの隙間《すきま》からか雪とともに、鷺が起《た》ち込んで浴《ゆあ》みしたろう、とそうさえ思ったほどであった。
 そのままじっと覗《のぞ》いていると、薄黒く、ごそごそと雪を踏んで行く、伊作の袖《そで》の傍《わき》を、ふわりと巴の提灯が点《つ》いて行く。おお今、窓下では提灯を持ってはいなかったようだ。――それに、もうやがて、庭を横ぎって、濡縁《ぬれえん》か、戸口に入りそうだ、と思うまで距《へだ》たった。遠いまで小さく見える、としばらくして、ふとあとへ戻るような、やや大きくなって、あの土間廊下の外の、萱《かや》屋根のつま下をすれずれに、だんだんこなたへ引き返す、引き返すのが、気のせいだか、いつの間にか、中へはいって、土間の暗がりを点《とも》れて来る。……橋がかり、一方が洗面所、突当りが湯殿……ハテナとぎょッとするまで気がついたのは、その点れて来る提灯を、座敷へ振り返らずに、逆に窓から庭の方に乗り出しつつ見ていることであった。
 トタンに消えた。――頭からゾッとして、首筋を硬《こわ》く振り向くと、座敷に、白鷺かと思う女の後ろ姿の頸脚《えりあし》がスッと白い。
 違《ちが》い棚《だな》の傍《わき》に、十畳のその辰巳《たつみ》に据《す》えた、姿見に向かった、うしろ姿である。……湯気に山茶花《さざんか》の悄《しお》れたかと思う、濡《ぬ》れたように、しっとりと身についた藍鼠《あいねずみ》の縞小紋《しまこもん》に、朱鷺色《ときいろ》と白のいち松のくっきりした伊達巻《だてまき》で乳の下の縊《くび》れるばかり、消えそうな弱腰に、裾模様《すそもよう》が軽《かろ》く靡《なび》いて、片膝《かたひざ》をやや浮かした、褄《つま》を友染《ゆうぜん》がほんのり溢《こぼ》れる。露の垂《た》りそうな円髷《まるまげ》に、桔梗色《ききょういろ》の手絡《てがら》が青白い。浅葱《あさぎ》の長襦袢《ながじゅばん》の裏が媚《なまめ》かしく搦《から》んだ白い手で、刷毛《はけ》を優しく使いながら、姿見を少しこごみなりに覗くようにして、化粧をしていた。
 境は起《た》つも坐《い》るも知らず息を詰めたのである。
 あわれ、着た衣《きぬ》は雪の下なる薄もみじで、膚《はだ》の雪が、かえって薄もみじを包んだかと思う、深く脱いだ襟脚《えりあし》を、すらりと引いて掻《か》き合わすと、ぼっとりとして膝近だった懐紙《かみ》を取って、くるくると丸げて、掌《てのひら》を拭《ふ》いて落としたのが、畳へ白粉《おしろい》のこぼれるようであった。
 衣摺《きぬず》れが、さらりとした時、湯どのできいた人膚《ひとはだ》に紛《まが》うとめきが薫《かお》って、少し斜めに居返《いがえ》ると、煙草《たばこ》を含んだ。吸い口が白く、艶々《つやつや》と煙管《きせる》が黒い。
 トーンと、灰吹の音が響いた。
 きっと向いて、境を見た瓜核顔《うりざねがお》は、目《ま》ぶちがふっくりと、鼻筋通って、色の白さは凄《すご》いよう。――気の籠《こ》もった優しい眉《まゆ》の両方を、懐紙《かみ》でひたと隠して、大きな瞳《ひとみ》でじっと視《み》て、
「……似合いますか。」
 と、莞爾《にっこり》した歯が黒い。と、莞爾しながら、褄《つま》を合わせざまにすっくりと立った。顔が
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