いっさくじつ》の旅館の朝はどうだろう。……溝《どぶ》の上澄みのような冷たい汁に、おん羮ほどに蜆《しじみ》が泳いで、生煮えの臭さといったらなかった。……
山も、空も氷を透《とお》すごとく澄みきって、松の葉、枯木の閃《きらめ》くばかり、晃々《きらきら》と陽《ひ》がさしつつ、それで、ちらちらと白いものが飛んで、奥山に、熊が人立《じんりつ》して、針を噴《ふ》くような雪であった。
朝飯《あさ》が済んでしばらくすると、境はしくしくと腹が疼《いた》みだした。――しばらくして、二三度はばかりへ通った。
あの、饂飩《うどん》の祟《たた》りである。鶫を過食したためでは断じてない。二ぜん分を籠《こ》みにした生がえりのうどん粉の中毒《あた》らない法はない。お腹《なか》を圧《おさ》えて、饂飩を思うと、思う下からチクチクと筋が動いて痛み出す。――もっとも、戸外《そと》は日当りに針が飛んでいようが、少々腹が痛もうが、我慢して、汽車に乗れないという容体《ようだい》ではなかったので。……ただ、誰も知らない。この宿の居心のいいのにつけて、どこかへのつらあてにと、逗留《とうりゅう》する気になったのである。
ところで座敷だが――その二度めだったか、厠《かわや》のかえりに、わが座敷へ入ろうとして、三階の欄干《てすり》から、ふと二階を覗《のぞ》くと、階子段《はしごだん》の下に、開けた障子に、箒《ほうき》とはたきを立て掛けた、中の小座敷に炬燵《こたつ》があって、床の間が見通される。……床に行李《こうり》と二つばかり重ねた、あせた萌葱《もえぎ》の風呂敷《ふろしき》づつみの、真田紐《さなだひも》で中結わえをしたのがあって、旅商人《たびあきんど》と見える中年の男が、ずッぷり床を背負《しよ》って当たっていると、向い合いに、一人の、中年増《ちゅうどしま》の女中がちょいと浮腰で、膝《ひざ》をついて、手さきだけ炬燵に入れて、少し仰向くようにして、旅商人と話をしている。
なつかしい浮世の状《さま》を、山の崖《がけ》から掘り出して、旅宿《やど》に嵌《は》めたように見えた。
座敷は熊の皮である。境は、ふと奥山へ棄《す》てられたように、里心が着いた。
一昨日《おととい》松本で城を見て、天守に上って、その五層《いつつ》めの朝霜の高層に立って、ぞっとしたような、雲に連なる、山々のひしと再び窓に来て、身に迫るのを覚えもした。バスケットに、等閑《なおざり》に絡《から》めたままの、城あとの崩《くず》れ堀《ぼり》の苔《こけ》むす石垣《いしがき》を這《は》って枯れ残った小さな蔦《つた》の紅《くれない》の、鶫《つぐみ》の血のしたたるごときのを見るにつけても。……急に寂しい。――「お米さん、下階《した》に座敷はあるまいか。――炬燵に入ってぐっすりと寝たいんだ。」
二階の部屋々々は、時ならず商人衆《あきんどしゅう》の出入《ではい》りがあるからと、望むところの下座敷、おも屋から、土間を長々と板を渡って離れ座敷のような十畳へ導かれたのであった。
肱掛窓《ひじかけまど》の外が、すぐ庭で、池がある。
白雪の飛ぶ中に、緋鯉《ひごい》の背、真鯉の鰭《ひれ》の紫は美しい。梅も松もあしらったが、大方は樫槻《かしけやき》の大木である。朴《ほお》の樹《き》の二|抱《かか》えばかりなのさえすっくと立つ。が、いずれも葉を振るって、素裸《すはだか》の山神《さんじん》のごとき装いだったことは言うまでもない。
午後三時ごろであったろう。枝に梢《こずえ》に、雪の咲くのを、炬燵で斜違《はすか》いに、くの字になって――いい婦《おんな》だとお目に掛けたい。
肱掛窓を覗《のぞ》くと、池の向うの椿《つばき》の下に料理番が立って、つくねんと腕組して、じっと水を瞻《みまも》るのが見えた。例の紺の筒袖《つつッぽ》に、尻《しり》からすぽんと巻いた前垂《まえだれ》で、雪の凌《しの》ぎに鳥打帽を被《かぶ》ったのは、いやしくも料理番が水中の鯉を覗くとは見えない。大きな鷭《ばん》が沼の鰌《どじょう》を狙《ねら》っている形である。山も峰も、雲深くその空を取り囲む。
境は山間の旅情を解した。「料理番さん、晩の御馳走《ごちそう》に、その鯉を切るのかね。」「へへ。」と薄暗い顔を上げてニヤリと笑いながら、鳥打帽を取ってお時儀をして、また被り直すと、そのままごそごそと樹《き》を潜《くぐ》って廂《ひさし》に隠れる。
帳場は遠し、あとは雪がやや繁《しげ》くなった。
同時に、さらさらさらさらと水の音が響いて聞こえる。「――また誰か洗面所の口金を開け放したな。」これがまた二度めで。……今朝三階の座敷を、ここへ取り替えない前に、ちと遠いが、手水《ちょうず》を取るのに清潔《きれい》だからと女中が案内をするから、この離座敷《はなれ》に近い洗面所に来ると、三カ所、水道口《みずぐち》があるのにそのどれを捻《ひね》っても水が出ない。さほどの寒さとは思えないが凍《い》てたのかと思って、谺《こだま》のように高く手を鳴らして女中に言うと、「あれ、汲《く》み込《こ》みます。」と駈《か》け出して行くと、やがて、スッと水が出た。――座敷を取り替えたあとで、はばかりに行くと、ほかに手水鉢《ちょうずばち》がないから、洗面所の一つを捻《ひね》ったが、その時はほんのたらたらと滴《したた》って、辛《かろ》うじて用が足りた。
しばらくすると、しきりに洗面所の方で水音がする。炬燵《こたつ》から潜《もぐ》り出て、土間へ下りて橋がかりからそこを覗《のぞ》くと、三ツの水道口《みずぐち》、残らず三条《みすじ》の水が一齊《いちどき》にざっと灌《そそ》いで、徒《いたず》らに流れていた。たしない水らしいのに、と一つ一つ、丁寧にしめて座敷へ戻った。が、その時も料理番が池のへりの、同じ処《ところ》につくねんと彳《たたず》んでいたのである。くどいようだが、料理番の池に立ったのは、これで二度めだ。……朝のは十時ごろであったろう。トその時料理番が引っ込むと、やがて洗面所の水が、再び高く響いた。
またしても三条の水道が、残らず開け放しに流れている。おなじこと、たしない水である。あとで手を洗おうとする時は、きっと涸《か》れるのだからと、またしても口金をしめておいたが。――
いま、午後の三時ごろ、この時も、さらにその水の音が聞こえ出したのである。庭の外には小川も流れる。奈良井川の瀬も響く。木曾へ来て、水の音を気にするのは、船に乗って波を見まいとするようなものである。望みこそすれ、嫌《きら》いも避けもしないのだけれど、不思議に洗面所の開け放しばかり気になった。
境はまた廊下へ出た。果して、三条とも揃《そろ》って――しょろしょろと流れている。「旦那《だんな》さん、お風呂《ふろ》ですか。」手拭《てぬぐい》を持っていたのを見て、ここへ火を直しに、台|十能《じゅうのう》を持って来かかった、お米が声を掛けた。「いや――しかし、もう入れるかい。」「じきでございます。……今日はこの新館のが湧《わ》きますから。」なるほど、雪の降りしきるなかに、ほんのりと湯の香が通う。洗面所の傍《わき》の西洋扉《せいようど》が湯殿らしい。この窓からも見える。新しく建て増した柱立てのまま、筵《むしろ》がこいにしたのもあり、足場を組んだ処《ところ》があり、材木を積んだ納屋《なや》もある。が、荒れた厩《うまや》のようになって、落葉に埋《う》もれた、一帯、脇本陣《わきほんじん》とでも言いそうな旧家が、いつか世が成金とか言った時代の景気につれて、桑《くわ》も蚕《かいこ》も当たったであろう、このあたりも火の燃えるような勢いに乗じて、贄川《にえがわ》はその昔は、煮え川にして、温泉《いでゆ》の湧いた処だなぞと、ここが温泉にでもなりそうな意気込みで、新館建増しにかかったのを、この一座敷と、湯殿ばかりで、そのまま沙汰《さた》やみになったことなど、あとで分《わ》かった。「女中《ねえ》さんかい、その水を流すのは。」閉めたばかりの水道の栓《せん》を、女中が立ちながら一つずつ開けるのを視《み》て、たまらず詰《なじ》るように言ったが、ついでにこの仔細《しさい》も分かった。……池は、樹《き》の根に樋《とい》を伏せて裏の川から引くのだが、一年に一二度ずつ水涸《みずが》れがあって、池の水が干《ひ》ようとする。鯉《こい》も鮒《ふな》も、一処《ひとところ》へ固まって、泡《あわ》を立てて弱るので、台所の大桶《おおおけ》へ汲《く》み込んだ井戸の水を、はるばるとこの洗面所へ送って、橋がかりの下を潜《くぐ》らして、池へ流し込むのだそうであった。
木曾道中の新版を二三種ばかり、枕《まくら》もとに散らした炬燵へ、ずぶずぶと潜《もぐ》って、「お米さん、……折り入って、お前さんに頼みがある。」と言いかけて、初々《ういうい》しくちょっと俯向《うつむ》くのを見ると、猛然として、喜多八を思い起こして、わが境は一人で笑った。「ははは、心配なことではないよ。――おかげで腹あんばいも至ってよくなったし、……午飯《ひる》を抜いたから、晩には入り合せにかつ食い、大いに飲むとするんだが、いまね、伊作さんが渋苦い顔をして池を睨《にら》んで行きました。どうも、鯉のふとり工合《ぐあい》を鑑定《めきき》したものらしい……きっと今晩の御馳走《ごちそう》だと思うんだ。――昨夜《ゆうべ》の鶫《つぐみ》じゃないけれど、どうも縁あって池の前に越して来て、鯉と隣附き合いになってみると、目の前から引き上げられて、俎《まないた》で輪切りは酷《ひど》い。……板前の都合もあろうし、またわがままを言うのではない。……
活《いき》づくりはお断わりだが、実は鯉汁《こいこく》大歓迎なんだ。しかし、魚屋か、何か、都合して、ほかの鯉を使ってもらうわけには行くまいか。――差し出たことだが、一|尾《ぴき》か二|尾《ひき》で足りるものなら、お客は幾人だか、今夜の入用《いりよう》だけは私がその原料を買ってもいいから。」女中の返事が、「いえ、この池のは、いつもお料理にはつかいませんのでございます。うちの旦那も、おかみさんも、お志の仏の日には、鮒だの、鯉だの、……この池へ放しなさるんでございます。料理番さんもやっぱり。……そして料理番《あのひと》は、この池のを大事にして、可愛《かわい》がって、そのせいですか、隙《ひま》さえあれば、黙ってああやって庭へ出て、池を覗いていますんです。」「それはお誂《あつら》えだ。ありがたい。」境は礼を言ったくらいであった。
雪の頂から星が一つ下がったように、入相《いりあい》の座敷に電燈の点《つ》いた時、女中が風呂を知らせに来た。
「すぐに膳《ぜん》を。」と声を掛けておいて、待ち構えた湯どのへ、一散――例の洗面所の向うの扉《と》を開けると、上がり場らしいが、ハテ真暗である。いやいや、提灯《ちょうちん》が一燈ぼうと薄白く点いている。そこにもう一枚|扉《ひらき》があって閉まっていた。その裡《なか》が湯どのらしい。
「半作事《はんさくじ》だと言うから、まだ電燈《でんき》が点かないのだろう。おお、二《ふた》つ巴《どもえ》の紋だな。大星だか由良之助《ゆらのすけ》だかで、鼻を衝《つ》く、鬱陶《うっとう》しい巴の紋も、ここへ来ると、木曾殿の寵愛《ちょうあい》を思い出させるから奥床しい。」
と帯を解きかけると、ちゃぶり――という――人が居て湯を使う気勢《けはい》がする。この時、洗面所の水の音がハタとやんだ。
境はためらった。
が、いつでもかまわぬ。……他《ひと》が済んで、湯のあいた時を知らせてもらいたいと言っておいたのである。誰も入ってはいまい。とにかくと、解きかけた帯を挟《はさ》んで、ずッと寄って、その提灯の上から、扉《と》にひったりと頬《ほお》をつけて伺うと、袖《そで》のあたりに、すうーと暗くなる、蝋燭《ろうそく》が、またぽうと明《あか》くなる。影が痣《あざ》になって、巴が一つ片頬《かたほ》に映るように陰気に沁《し》み込む、と思うと、ばちゃり……内端《うちわ》に湯が動いた。何の隙間《すきま》からか、ぷんと梅の香を、ぬくもりで溶かした
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