なら、生きておらぬ。咽喉笛《のどぶえ》鉄砲じゃ、鎌腹《かまばら》じゃ、奈良井川の淵《ふち》を知らぬか。……桔梗ヶ池《ききょうがいけ》へ身を沈める……こ、こ、この婆《ばばあ》め、沙汰の限りな、桔梗ヶ池へ沈めますものか、身投げをしようとしたら、池が投げ出しましょう。」
と言って、料理番は苦笑した。
「また、今時に珍しい、学校でも、倫理、道徳、修身の方を御研究もなされば、お教えもなさいます、学士は至っての御孝心。かねて評判な方で、嫁御をいたわる傍《はた》の目には、ちと弱すぎると思うほどなのでございますから、困《こう》じ果てて、何とも申しわけも面目《めんぼく》もなけれども、とにかく一度、この土地へ来てもらいたい。万事はその上で。と言う――学士先生から画師《えかき》さんへのお頼みでございます。
さて、これは決闘状《はたしじょう》より可恐《おそろ》しい。……もちろん、村でも不義ものの面《つら》へ、唾《つば》と石とを、人間の道のためとか申して騒ぐ方《かた》が多い真中《まんなか》でございますから。……どの面さげて画師さんが奈良井へ二度面がさらされましょう、旦那《だんな》。」
「これは何と言われても来られまいなあ。」
「と言って、学士先生との義理合いでは来ないわけにはまいりますまい。ところで、その画師さんは、その時、どこに居たと思《おぼ》し召《め》します。……いろのことから、怪《け》しからん、横頬《よこぞっぽ》を撲《は》ったという細君の、袖《そで》のかげに、申しわけのない親御たちのお位牌《いはい》から頭をかくして、尻《しり》も足もわなわなと震えていましたので、弱った方でございます。……必ず、連れて参ります――と代官|婆《ばば》に、誓って約束をなさいまして、学士先生は東京へ立たれました。
その上京中。その間のことなのでございます、――柳橋の蓑吉《みのきち》姉《ねえ》さん……お艶様が……ここへお泊まりになりましたのは。……」
六
「――どんな用事の御都合にいたせ、夜中《やちゅう》、近所が静まりましてから、お艶様が、おたずねになろうというのが、代官婆の処《ところ》と承っては、一人ではお出し申されません。ただ道だけ聞けば、とのことでございましたけれども、おともが直接《じか》について悪ければ、垣根《かきね》、裏口にでもひそみまして、内々守って進じようで……帳場が相談をしまして、その人選に当たりましたのが、この、ふつつかな私《てまい》なんでございました。……
お支度《したく》がよろしくばと、私《てまい》、これへ……このお座敷へ提灯《ちょうちん》を持って伺いますと……」
「ああ、二つ巴《どもえ》の紋のだね。」と、つい誘われるように境が言った。
「へい。」
と暗く、含むような、頤《おとがい》で返事を吸って、
「よく御存じで。」
「二度まで、湯殿に点《つ》いていて、知っていますよ。」
「へい、湯殿に……湯殿に提灯を点《つ》けますようなことはございませんが、――それとも、へーい。」
この様子では、今しがた庭を行く時、この料理番とともに提灯が通ったなどとは言い出せまい。境は話を促した。
「それから。」
「ちと変な気がいたしますが。――ええ、ざっとお支度済みで、二度めの湯上がりに薄化粧をなすった、めしものの藍鼠《あいねずみ》がお顔の影に藤色《ふじいろ》になって見えますまで、お色の白さったらありません、姿見の前で……」
境が思わず振り返ったことは言うまでもない。
「金の吸口《くち》で、烏金《しゃくどう》で張った煙管《きせる》で、ちょっと歯を染めなさったように見えます。懐紙《かいし》をな、眉《まゆ》にあてて私《てまい》を、おも長に御覧なすって、
――似合いますか。――」
「むむ、む。」と言う境の声は、氷を頬張《ほおば》ったように咽喉《のど》に支《つか》えた。
「畳のへりが、桔梗《ききょう》で白いように見えました。
(ええ、勿体ないほどお似合いで。)と言うのを聞いて、懐紙をおのけになると、眉のあとがいま剃立《そりた》ての真青《まっさお》で。……(桔梗ヶ池の奥様とは?)――(お姉妹《きょうだい》……いや一倍お綺麗《きれい》で)と罰《ばち》もあたれ、そう申さずにはおられなかったのでございます。
ここをお聞きなさいまし。」……
(お艶さん、どうしましょう。)
「雪がちらちら雨まじりで降る中を、破れた蛇目傘《じゃのめ》で、見すぼらしい半纏《はんてん》で、意気にやつれた画師さんの細君が、男を寝取った情婦《おんな》とも言わず、お艶様――本妻が、その体《てい》では、情婦《いろ》だって工面《くめん》は悪うございます。目を煩《わず》らって、しばらく親許《おやもと》へ、納屋《なや》同然な二階借りで引き籠《こ》もって、内職に、娘子供に長唄《ながうた》なんか、さ
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