ご》の蕎麦二ぜんに思い較《くら》べた。いささか仰山だが、不思議の縁というのはこれで――急に奈良井へ泊まってみたくなったのである。
 日あしも木曾の山の端《は》に傾いた。宿《しゅく》には一時雨《ひとしぐれ》さっとかかった。
 雨ぐらいの用意はしている。駅前の俥は便《たよ》らないで、洋傘《かさ》で寂しく凌《しの》いで、鴨居《かもい》の暗い檐《のき》づたいに、石ころ路《みち》を辿《たど》りながら、度胸は据《す》えたぞ。――持って来い、蕎麦二|膳《ぜん》。で、昨夜の饂飩は暗討《やみう》ちだ――今宵《こよい》の蕎麦は望むところだ。――旅のあわれを味わおうと、硝子《ガラス》張りの旅館一二軒を、わざと避けて、軒に山駕籠《やまかご》と干菜《ひば》を釣《つ》るし、土間の竈《かまど》で、割木《わりぎ》の火を焚《た》く、侘《わび》しそうな旅籠屋を烏《からす》のように覗《のぞ》き込み、黒き外套《がいとう》で、御免と、入ると、頬冠《ほおかぶ》りをした親父《おやじ》がその竈の下を焚いている。框《かまち》がだだ広く、炉が大きく、煤《すす》けた天井に八間行燈《はちけん》の掛かったのは、山駕籠と対《つい》の註文《ちゅうもん》通り。階子下《はしごした》の暗い帳場に、坊主頭の番頭は面白い。
「いらっせえ。」
 蕎麦二膳、蕎麦二膳と、境が覚悟の目の前へ、身軽にひょいと出て、慇懃《いんぎん》に会釈《えしゃく》をされたのは、焼麸《やきふ》だと思う(しっぽく)の加料《かやく》が蒲鉾《かまぼこ》だったような気がした。
「お客様だよ――鶴《つる》の三番。」
 女中も、服装《みなり》は木綿《もめん》だが、前垂《まえだれ》がけのさっぱりした、年紀《とし》の少《わか》い色白なのが、窓、欄干を覗く、松の中を、攀《よ》じ上るように三階へ案内した。――十畳敷。……柱も天井も丈夫造りで、床の間の誂《あつら》えにもいささかの厭味《いやみ》がない、玄関つきとは似もつかない、しっかりした屋台である。
 敷蒲団《しきぶとん》の綿も暖かに、熊《くま》の皮の見事なのが敷いてあるは。ははあ、膝栗毛時代に、峠路《とうげじ》で売っていた、猿《さる》の腹ごもり、大蛇《おろち》の肝、獣の皮というのはこれだ、と滑稽《おどけ》た殿様になって件《くだん》の熊の皮に着座に及ぶと、すぐに台十能《だいじゅう》へ火を入れて女中《ねえ》さんが上がって来て、惜し気もな
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