様だと言う。姐《ねえ》さん……、境は少々居直って、どこか近所から取り寄せてもらえまいか。へいもう遅うござりますで、飲食店は寝ましたでな……飲食店だと言やあがる。はてな、停車場《ステエション》から、震えながら俥《くるま》でくる途中、ついこの近まわりに、冷たい音して、川が流れて、橋がかかって、両側に遊廓《ゆうかく》らしい家が並んで、茶めしの赤い行燈《あんどん》もふわりと目の前にちらつくのに――ああ、こうと知ったら軽井沢で買った二合|罎《びん》を、次郎どのの狗《いぬ》ではないが、皆なめてしまうのではなかったものを。大歎息《おおためいき》とともに空《す》き腹《ばら》をぐうと鳴らして可哀《あわれ》な声で、姐さん、そうすると、酒もなし、麦酒もなし、肴《さかな》もなし……お飯《まんま》は。いえさ、今晩の旅籠《はたご》の飯は。へい、それが間に合いませんので……火を引いたあとなもんでなあ――何の怨《うら》みか知らないが、こうなると冷遇を通り越して奇怪《きっかい》である。なまじ紹介状があるだけに、喧嘩面《けんかづら》で、宿を替えるとも言われない。前世《ぜんせ》の業《ごう》と断念《あきら》めて、せめて近所で、蕎麦《そば》か饂飩《うどん》の御都合はなるまいか、と恐る恐る申し出ると、饂飩なら聞いてみましょう。ああ、それを二ぜん頼みます。女中は遁《に》げ腰《ごし》のもったて尻《じり》で、敷居へ半分だけ突き込んでいた膝《ひざ》を、ぬいと引っこ抜いて不精《ぶしょう》に出て行く。
 待つことしばらくして、盆で突き出したやつを見ると、丼《どんぶり》がたった一つ。腹の空《す》いた悲しさに、姐さん二ぜんと頼んだのだが。と詰《なじ》るように言うと、へい、二ぜん分、装《も》り込んでございますで。いや、相わかりました。どうぞおかまいなく、お引き取りを、と言うまでもなし……ついと尻を見せて、すたすたと廊下を行くのを、継児《ままっこ》のような目つきで見ながら、抱き込むばかりに蓋《ふた》を取ると、なるほど、二ぜんもり込みだけに汁《したじ》がぽっちり、饂飩は白く乾いていた。
 この旅館が、秋葉山《あきばさん》三尺坊が、飯綱《いいづな》権現へ、客を、たちもの[#「たちもの」に傍点]にしたところへ打撞《ぶつか》ったのであろう、泣くより笑いだ。
 その……饂飩二ぜんの昨夜《ゆうべ》を、むかし弥次郎、喜多八が、夕旅籠《ゆうはた
前へ 次へ
全33ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング