て鹿《しか》の鳴き声を聞いた処《ところ》……
 ……と思うと、ふとここで泊まりたくなった。停車場《ステエション》を、もう汽車が出ようとする間際《まぎわ》だったと言うのである。
 この、筆者の友、境賛吉《さかいさんきち》は、実は蔦《つた》かずら木曾《きそ》の桟橋《かけはし》、寝覚《ねざめ》の床《とこ》などを見物のつもりで、上松《あげまつ》までの切符を持っていた。霜月の半ばであった。
「……しかも、その(蕎麦二|膳《ぜん》)には不思議な縁がありましたよ……」
 と、境が話した。
 昨夜は松本で一泊した。御存じの通り、この線の汽車は塩尻《しおじり》から分岐点《のりかえ》で、東京から上松へ行くものが松本で泊まったのは妙である。もっとも、松本へ用があって立ち寄ったのだと言えば、それまででざっと済む。が、それだと、しめくくりが緩《ゆる》んでちと辻褄《つじつま》が合わない。何も穿鑿《せんさく》をするのではないけれど、実は日数の少ないのに、汽車の遊びを貪《むさぼ》った旅行《たび》で、行途《ゆき》は上野から高崎、妙義山を見つつ、横川、熊《くま》の平《たいら》、浅間を眺め、軽井沢、追分をすぎ、篠《しの》の井《い》線に乗り替えて、姨捨《おばすて》田毎《たごと》を窓から覗《のぞ》いて、泊りはそこで松本が予定であった。その松本には「いい娘の居る旅館があります。懇意ですから御紹介をしましょう」と、名のきこえた画家が添え手紙をしてくれた。……よせばいいのに、昨夜その旅館につくと、なるほど、帳場にはそれらしい束髪の女が一人見えたが、座敷へ案内したのは無論女中で。……さてその紹介状を渡したけれども、娘なんぞ寄っても着かない、……ばかりでない。この霜夜に、出しがらの生温《なまぬる》い渋茶一杯|汲《く》んだきりで、お夜食ともお飯《まんま》とも言い出さぬ。座敷は立派で卓は紫檀《したん》だ。火鉢《ひばち》は大きい。が火の気はぽっちり。で、灰の白いのにしがみついて、何しろ暖かいものでお銚子《ちょうし》をと云《い》うと、板前で火を引いてしまいました、なんにも出来ませんと、女中《ねえさん》の素気《そっけ》なさ。寒さは寒し、なるほど、火を引いたような、家中|寂寞《ひっそり》とはしていたが、まだ十一時前である……酒だけなりと、頼むと、おあいにく。酒はないのか、ござりません。――じゃ、麦酒《ビイル》でも。それもお気の毒
前へ 次へ
全33ページ中2ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング