なかった。ここで暖かに心が解けると、……分かった、饂飩《うどん》で虐待した理由《わけ》というのが――紹介状をつけた画伯は、近頃でこそ一家をなしたが、若くて放浪した時代に信州路《しんしゅうじ》を経歴《へめぐ》って、その旅館には五月《いつつき》あまりも閉じ籠《こ》もった。滞《とどこお》る旅籠代《はたごだい》の催促もせず、帰途《かえり》には草鞋銭《わらじせん》まで心着けた深切な家《うち》だと言った。が、ああ、それだ。……おなじ人の紹介だから旅籠代を滞らして、草鞋銭を貰うのだと思ったに違いない。……
「ええ、これは、お客様、お麁末《そまつ》なことでして。」
と紺の鯉口《こいぐち》に、おなじ幅広の前掛けした、痩《や》せた、色のやや青黒い、陰気だが律儀《りちぎ》らしい、まだ三十六七ぐらいな、五分刈りの男が丁寧に襖際《ふすまぎわ》に畏《かしこ》まった。
「どういたして、……まことに御馳走様。……番頭さんですか。」
「いえ、当家の料理人にございますが、至って不束《ふつつか》でございまして。……それに、かような山家辺鄙《やまがへんぴ》で、一向お口に合いますものもございませんで。」
「とんでもないこと。」
「つきまして、……ただいま、女どもまでおっしゃりつけでございましたが、鶫を、貴方様《あなたさま》、何か鍋でめしあがりたいというお言《ことば》で、いかようにいたして差し上げましょうやら、右、女どももやっぱり田舎《いなか》もののことでございますで、よくお言がのみ込めかねます。ゆえに失礼ではございますが、ちょいとお伺いに出ましてございますが。」
境は少なからず面くらった。
「そいつはどうも恐縮です。――遠方のところを。」
とうっかり言った。……
「串戯《じょうだん》のようですが、全く三階まで。」
「どう仕《つかまつ》りまして。」
「まあ、こちらへ――お忙しいんですか。」
「いえ、お膳《ぜん》は、もう差し上げました。それが、お客様も、貴方様のほか、お二組ぐらいよりございません。」
「では、まあこちらへ。――さあ、ずっと。」
「はッ、どうも。」
「失礼をするかも知れないが、まあ、一杯《ひとつ》。ああ、――ちょうどお銚子が来た。女中《ねえ》さん、お酌をしてあげて下さい。」
「は、いえ、手前不調法で。」
「まあまあ一杯《ひとつ》。――弱ったな、どうも、鶫《つぐみ》を鍋でと言って、……その何で
前へ
次へ
全33ページ中6ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング