琵琶伝
泉鏡花
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)床杯《とこさかずき》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)皆|他《ひと》の
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「口+阿」、第4水準2−4−5]呀《あなや》
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一
新婦が、床杯《とこさかずき》をなさんとて、座敷より休息の室《ま》に開きける時、介添の婦人《おんな》はふとその顔を見て驚きぬ。
面貌《めんぼう》ほとんど生色なく、今にも僵《たお》れんずばかりなるが、ものに激したる状《さま》なるにぞ、介添は心許《こころもと》なげに、つい居て着換を捧げながら、
「もし、御気分でもお悪いのじゃございませんか。」
と声を密《ひそ》めてそと問いぬ。
新婦は凄冷《せいれい》なる瞳を転じて、介添を顧みつ。
「何。」
とばかり簡単に言捨てたるまま、身さえ眼をさえ動かさで、一心ただ思うことあるその一方を見詰めつつ、衣を換うるも、帯を緊《し》むるも、衣紋《えもん》を直すも、褄《つま》を揃うるも、皆|他《ひと》の手に打任せつ。
尋常《ただ》ならぬ新婦の気色を危《あやぶ》みたる介添の、何かは知らずおどおどしながら、
「こちらへ。」
と謂《い》うに任せ、渠《かれ》は少しも躊躇《ためら》わで、静々と歩を廊下に運びて、やがて寝室に伴われぬ。
床にはハヤ良人《おっと》ありて、新婦の来《きた》るを待ちおれり。渠は名を近藤重隆と謂う陸軍の尉官《いかん》なり。式は別に謂わざるべし、媒妁《なこうど》の妻退き、介添の婦人《おんな》皆|罷出《まかんで》つ。
ただ二人、閨《ねや》の上に相対し、新婦は屹《きっ》と身体《からだ》を固めて、端然として坐したるまま、まおもてに良人の面《おもて》を瞻《みまも》りて、打解けたる状《さま》毫《すこし》もなく、はた恥らえる風情も無かりき。
尉官は腕を拱《こまぬ》きて、こもまた和《やわら》ぎたる体《てい》あらず、ほとんど五分時ばかりの間、互に眼と眼を見合せしが、遂に良人まず粛《さ》びたる声にて、
「お通。」
とばかり呼懸けつ。
新婦の名はお通ならむ。
呼ばるるに応《こた》えて、
「はい。」
とのみ。渠は判然《きっぱり》とものいえり。
尉官は太《いた》く苛立《いらだ》つ胸を、強いて落着けたらんごとき、沈める、力ある音調もて、
「汝《おまえ》、よく娶《き》たな。」
お通は少しも口籠《くちごも》らで、
「どうも仕方がございません。」
尉官はしばらく黙しけるが、ややその声を高うせり。
「おい、謙三郎はどうした。」
「息災で居《お》ります。」
「よく、汝《おまえ》、別れることが出来たな。」
「詮方《しかた》がないからです。」
「なぜ、詮方がない。うむ。」
お通はこれが答をせで、懐中《ふところ》に手を差入れて一通の書を取出し、良人の前に繰広げて、両手を膝に正してき。尉官は右手《めて》を差伸《さしのば》し、身近に行燈《あんどん》を引寄せつつ、眼《まなこ》を定めて読みおろしぬ。
文字《もんじ》は蓋《けだ》し左《さ》のごときものにてありし。
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お通に申残し参らせ候、御身《おんみ》と近藤重隆殿とは許婚《いいなずけ》に有之《これあり》候
然《しか》るに御身は殊の外|彼《か》の人を忌嫌い候様子、拙者の眼に相見え候えば、女《むすめ》ながらも其由《そのよし》のいい聞け難くて、臨終《いまわ》の際まで黙し候
さ候えども、一旦親戚の儀を約束いたし候えば、義理堅かりし重隆殿の先人に対し面目なく、今さら変替《へんがえ》相成らず候あわれ犠牲《いけにえ》となりて拙者の名のために彼の人に身を任せ申さるべく、斯《こ》の遺言を認《したた》め候時の拙者が心中の苦痛を以て、御身に謝罪いたし候
[#ここで字下げ終わり]
月 日[#地から2字上げ]清川|通知《みちとも》
お通殿
二度三度繰返して、尉官は容《かたち》を更《あらた》めたり。
「通、吾《おれ》は良人だぞ。」
お通は聞きて両手を支《つか》えぬ。
「はい、貴下《あなた》の妻でございます。」
その時尉官は傲然《ごうぜん》として俯向《うつむ》けるお通を瞰下《みおろ》しつつ、
「吾のいうことには、汝《おまえ》、きっと従うであろうな。」
此方《こなた》は頭《こうべ》を低《た》れたるまま、
「いえ、お従わせなさらなければ不可《いけ》ません。」
尉官は眉を動かしぬ。
「ふむ。しかし通、吾を良人とした以上は、汝、妻たる節操は守ろうな。」
お通は屹《きっ》と面を上げつ、
「いいえ、出来さえすれば破ります。」
尉官は怒気心頭を衝《つ》きて烈火のご
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