とく、
「何だ!」
とその言を再びせしめつ。お通は怯《お》めず、臆《おく》する色なく、
「はい。私に、私に、節操を守らねばなりませんという、そんな、義理はございませんから、出来さえすれば破ります!」
恐気《おそれげ》もなく言放てる、片頬に微笑《えみ》を含みたり。
尉官は直ちに頷《うなず》きぬ。胸中|予《あらかじ》めこの算ありけむ、熱の極は冷となりて、ものいいもいと静《しずか》に、
「うむ、きっと節操を守らせるぞ。」
渠は唇頭《しんとう》に嘲笑《ちょうしょう》したりき。
二
相本謙三郎はただ一人清川の書斎に在り。当所《あてど》もなく室《へや》の一方を見詰めたるまま、黙然《もくねん》として物思えり。渠《かれ》が書斎の椽前《えんさき》には、一個|数寄《すき》を尽したる鳥籠《とりかご》を懸けたる中に、一羽の純白なる鸚鵡《おうむ》あり、餌《え》を啄《ついば》むにも飽きたりけむ、もの淋しげに謙三郎の後姿を見|遣《や》りつつ、頭《かしら》を左右に傾けおれり。一室|寂《じゃく》たることしばしなりし、謙三郎はその清秀なる面《おもて》に鸚鵡を見向きて、太《いた》く物案ずる状《さま》なりしが、憂うるごとく、危《あやぶ》むごとく、はた人に憚《はばか》ることあるもののごとく、「琵琶《びわ》。」と一声、鸚鵡を呼べり。琵琶とは蓋《けだ》し鸚鵡の名ならむ。低く口笛を鳴《なら》すとひとしく、
「ツウチャン、ツウチャン。」
と叫べる声、奥深きこの書斎を徹《とお》して、一種の音調打響くに、謙三郎は愁然《しゅうぜん》として、思わず涙を催しぬ。
琵琶は年久しく清川の家に養われつ。お通と渠が従兄なる謙三郎との間に処して、巧みにその情交を暖めたりき。他なし、お通がこの家《や》の愛娘《まなむすめ》として、室《へや》を隔てながら家を整したりし頃、いまだ近藤に嫁がざりし以前には、謙三郎の用ありて、お通に見《まみ》えんと欲することあるごとに、今しも渠がなしたるごとく、籠の中なる琵琶を呼びて、しかく口笛を鳴すとともに、琵琶が玲瓏《れいろう》たる声をもて、「ツウチャン、ツウチャン。」と伝令すべく、よく馴《な》らされてありしかば、この時のごとく声を揚げて二たび三たび呼ぶとともに、帳内深き処|粛《しゅく》として物を縫う女、物差を棄て、針を措《お》きて、ただちに謙三郎に来《きた》りつつ、笑顔を合すが例なりしなり。
今やなし。あらぬを知りつつ謙三郎は、日に幾回、夜《よ》に幾回、果敢《はか》なきこの児戯を繰返すことを禁じ得ざりき。
さてその頃は、征清《せいしん》の出師《すいし》ありし頃、折はあたかも予備後備に対する召集令の発表されし折なりし。
謙三郎もまた我国《わがくに》徴兵の令に因りて、予備兵の籍にありしかば、一週日以前既に一度《ひとたび》聯隊に入営せしが、その月その日の翌日《あくるひ》は、旅団戦地に発するとて、親戚《しんせき》父兄の心を察し、一日の出営を許されたるにぞ、渠は父母無き孤児《みなしご》の、他に繋累《けいるい》とてはあらざれども、児《こ》として幼少より養育されて、母とも思う叔母に会して、永き離別《わかれ》を惜《おし》まんため、朝来ここに来《きた》りおり、聞くこともはた謂《い》うことも、永き夏の日に尽きざるに、帰営の時刻迫りたれば、謙三郎は、ひしひしと、戎衣《じゅうい》を装い、まさに辞し去らんとして躊躇《ちゅうちょ》しつ。
書斎に品《もの》あり、衣兜《かくし》に容《い》るるを忘れたりとて既に玄関まで出《い》でたる身の、一人書斎に引返しつ。
叔母とその奴婢《どひ》の輩《やから》は、皆玄関に立併《たちなら》びて、いずれも面に愁色《しゅうしょく》あり。弾丸の中に行《ゆ》く人の、今にも来《きた》ると待ちけるが、五分を過ぎ、十分を経て、なお書斎より来らざるにぞ、謙三郎はいかにせしと、心々に思える折から、寂として広き家の、遥《はるか》奥の方《かた》よりおとずれきて、
「ツウチャン、ツウチャン。」
と鸚鵡の声、聞き馴れたる叔母のこの時のみ何思いけん色をかえて、急がわしく書斎に到れり。
謙三郎は琵琶に命じて、お通の名をば呼ばしめしが、来《きた》るべき人のあらざるに、いつもの事とはいいながら、あすは戦地に赴く身の、再び見、再び聞き得べき声にあらねば、意を決したる首途《かどで》にも、渠はそぞろに涙ぐみぬ。
時に椽側に跫音《あしおと》あり。女々しき風情を見られまじと、謙三郎の立ちたる時、叔母は早くも此方《こなた》に来りて、突然《いきなり》鳥籠の蓋《ふた》を開けつ。
驚き見る間に羽ばたき高く、琵琶は籠中《ろうちゅう》を逸し去れり。
「おや! 何をなさいます。」
と謙三郎はせわしく問いたり。叔母は此方《こなた》を見も返らで、琵琶の行方を瞻《みまも》りつつ、
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