籠《たてこ》めて、室《へや》の中央《なかば》に進み寄り、愁然《しゅうぜん》として四辺《あたり》を※[#「目+旬」、第3水準1−88−80]《みまわ》し、坐りもやらず、頤《おとがい》を襟に埋《うず》みて悄然《しょうぜん》たる、お通の俤《おもかげ》窶《やつ》れたり。
 やがて桐火桶の前に坐して、亡き人の蒲団を避《よ》けつつ、その傍《そば》に崩折《くずお》れぬ。
「謙さん。」
 とまた低声《こごえ》に呼びて、もの驚きをしたらんごとく、肩をすぼめて首低《うなだ》れつ。鉄瓶にそと手を触れて、
「おお、よく沸いてるね。」
 と茶盆に眼を着け、その蓋を取のけ、冷《ひやや》かなる吸子《きゅうす》の中を差覗《さしのぞ》き、打悄《うちしお》れたる風情にて、
「貴下《あなた》、お茶でも入れましょうか。」
 と写真を、じっと瞻《みまも》りしが、はらはらと涙を溢《こぼ》して、その後はまたものいわず、深き思《おもい》に沈みけむ、身動きだにもなさざりき。
 落葉さらりと障子を撫でて、夜はようやく迫りつつ、あるかなきかのお通の姿も黄昏《たそがれ》の色に蔽《おお》われつ。炭火のじょうの動く時、いかにしてか聞えつらむ。
「ツウチャン。」
 とお通を呼べり。
 再び、
「ツウチャン。」
 とお通を呼べり。お通は黙想の夢より覚めて、声する方《かた》を屹《きっ》と仰ぎぬ。
「ツウチャン。」
 とまた繰返せり。お通はうかうかと立起《たちあが》りて、一歩を進め、二歩を行《ゆ》き、椽側に出《い》で、庭に下り、開け忘れたりし裏の非常口よりふらふらと立出でて、いずこともなく歩み去りぬ。
 かくて幾分時のその間、足のままに※[#「彳+淌のつくり」、第3水準1−84−33]※[#「彳+羊」、第3水準1−84−32]《さまよ》えりし、お通はふと心着きて、
「おや、どこへ来たんだろうね。」
 とその身みずからを怪《あやし》みたる、お通は見るより色を変えぬ。
 ここぞ陸軍の所轄に属する埋葬地の辺《あたり》なりける。
 銃殺されし謙三郎もまた葬られてここにあり。
 かの夜《よさ》、お通は機会を得て、一たび謙三郎と相抱き、互に顔をも見ざりしに、意中の人は捕縛されつ。
 その時既に精神的絶え果つべかりし玉の緒を、医療の手にて取留められ、活《い》くるともなく、死すにもあらで、やや二ヶ月を過ぎつる後《のち》、一日重隆のお通を強いて、ともに近郊に散策しつ。
 小高き丘に上りしほどに、ふと足下《あしもと》に平地ありて広袤《こうぼう》一円十町余、その一端には新しき十字架ありて建てるを見たり。
 お通は見る眼も浅ましきに、良人は予《あらかじ》め用意やしけむ、従卒に持って来させし、床几《しょうぎ》をそこに押並べて、あえてお通を抑留して、見る目を避くるを許さざりき。
 武歩たちまち丘下《きゅうか》に起りて、一中隊の兵員あり。樺色《かばいろ》の囚徒の服着たる一個の縄附を挟《さしはさ》みて眼界近くなりけるにぞ、お通は心から見るともなしに、ふとその囚徒を見るや否や、座右《ざう》の良人を流眄《ながしめ》に懸けつ。かつて「どうするか見ろ」と良人がいいし、それは、すなわちこれなりしよ。お通は十字架を一目見てしだに、なお且つ震いおののける先の状《さま》には引変えて、見る見る囚徒が面縛《めんばく》され、射手の第一、第二弾、第三射撃の響《ひびき》とともに、囚徒が固く食いしぼれる唇を洩《もれ》る鮮血の、細く、長くその胸間に垂れたるまで、お通は瞬《またたき》もせず瞻《みまも》りながら、手も動かさず態《なり》も崩さず、石に化したるもののごとく、一筋二筋頬にかかれる、後毛《おくれげ》だにも動かさざりし。
 銃殺全く執行されて、硝烟《しょうえん》の香の失《う》せたるまで、尉官は始終お通の挙動に細かく注目したりけるが、心地|好《よ》げに髯《ひげ》を捻《ひね》りて、
「勝手に節操を破ってみろ。」
 と片頬に微笑を含みてき。お通はその時|蒼《あお》くなりて、
「もう、破ろうにも破られません。しかし死、死ぬことは何時《なんどき》でも。」
 尉官はこれを聞きもあえず、
「馬鹿。」
 と激しくいいすくめつ。お通の首《うなじ》の低《た》るるを見て、
「従卒、家《うち》まで送ってやれ。」
 命ぜられたる従卒は、お通がみずから促したるまで、恐れて起《た》つことをだに得《え》せざりしなり。
 かくてその日の悲劇は終りつ。
 お通は家に帰りてより言行ほとんど平時《つね》のごとく、あるいは泣き、あるいは怨じて、尉官近藤の夫人たる、風采《ふうさい》と態度とを失うことをなさざりき。
 しかりし後《のち》、いまだかつて許されざりし里帰《さとがえり》を許されて、お通は実家に帰りしが、母の膝下《しっか》に来《きた》るとともに、張詰めし気の弛《ゆる》みけむ、渠《かれ》はあ
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