どけなきものとなりて、泣くも笑うも嬰児《あかご》のごとく、ものぐるおしき体《てい》なるより、一日のばしにいいのばしつ。母は女《むすめ》を重隆の許《もと》に返さずして、一月|余《あまり》を過してき。
されば世に亡き謙三郎の、今も書斎に在《いま》すがごとく、且つ掃き、且つ拭《ぬぐ》い、机を並べ、花を活け、茶を煎《せん》じ、菓子を挟むも、みなこれお通が堪えやらず忍びがたなき追慕の念の、その一端をもらせるなる。母は女《むすめ》の心を察して、その挙動のほとんど狂者のごときにもかかわらず、制し、且つ禁ずることを得ざりしなり。
五
お通は琵琶ぞと思いしなる、名を呼ぶ声にさまよい出でて、思わず謙三郎の墳墓なる埋葬地の間近に来り、心着けば土饅頭《どまんじゅう》のいまだ新らしく見ゆるにぞ、激しく往時を追懐して、無念、愛惜《あいじゃく》、絶望、悲惨、そのひとつだもなおよく人を殺すに足る、いろいろの感情に胸をうたれつ。就中《なかんずく》重隆が執念《しゅうね》き復讐の企《くわだて》にて、意中の人の銃殺さるるを、目前我身に見せしめ、当時の無念禁ずるあたわず。婦人《おんな》の意地と、張《はり》とのために、勉めて忍びし鬱憤《うっぷん》の、幾十倍の勢《いきおい》をもって今満身の血を炙《あぶ》るにぞ、面《おもて》は蒼ざめ紅《くれない》の唇|白歯《しらは》にくいしばりて、ほとんどその身を忘るる折から、見遣る彼方《かなた》の薄原《すすきはら》より丈高き人物|顕《あらわ》れたり。
濶歩《かっぽ》埋葬地の間をよぎりて、ふと立停《たちどま》ると見えけるが、つかつかと歩をうつして、謙三郎の墓に達《いた》り、足をあげてハタと蹴り、カッパと唾《つば》をはきかけたる、傍若無人の振舞の手に取るごとく見ゆるにぞ、意気|激昂《げきこう》して煙りも立たんず、お通はいかで堪うべき。
駈寄る婦人《おんな》の跫音《あしおと》に、かの人物は振返りぬ。これぞ近藤重隆なりける。
渠《かれ》は旅団の留守なりし、いま山狩の帰途《かえるさ》なり。ハタと面を合せる時、相隔ること三十歩、お通がその時の形相はいかに凄《すさ》まじきものなりしぞ尉官は思わず絶叫して、
「殺す! 吾《おれ》を、殺す※[#感嘆符三つ、214−10]」
というよりはやく、弾装《たまごめ》したる猟銃を、戦《おのの》きながら差向けつ。
矢や銃弾も中
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