に近郊に散策しつ。
 小高き丘に上りしほどに、ふと足下《あしもと》に平地ありて広袤《こうぼう》一円十町余、その一端には新しき十字架ありて建てるを見たり。
 お通は見る眼も浅ましきに、良人は予《あらかじ》め用意やしけむ、従卒に持って来させし、床几《しょうぎ》をそこに押並べて、あえてお通を抑留して、見る目を避くるを許さざりき。
 武歩たちまち丘下《きゅうか》に起りて、一中隊の兵員あり。樺色《かばいろ》の囚徒の服着たる一個の縄附を挟《さしはさ》みて眼界近くなりけるにぞ、お通は心から見るともなしに、ふとその囚徒を見るや否や、座右《ざう》の良人を流眄《ながしめ》に懸けつ。かつて「どうするか見ろ」と良人がいいし、それは、すなわちこれなりしよ。お通は十字架を一目見てしだに、なお且つ震いおののける先の状《さま》には引変えて、見る見る囚徒が面縛《めんばく》され、射手の第一、第二弾、第三射撃の響《ひびき》とともに、囚徒が固く食いしぼれる唇を洩《もれ》る鮮血の、細く、長くその胸間に垂れたるまで、お通は瞬《またたき》もせず瞻《みまも》りながら、手も動かさず態《なり》も崩さず、石に化したるもののごとく、一筋二筋頬にかかれる、後毛《おくれげ》だにも動かさざりし。
 銃殺全く執行されて、硝烟《しょうえん》の香の失《う》せたるまで、尉官は始終お通の挙動に細かく注目したりけるが、心地|好《よ》げに髯《ひげ》を捻《ひね》りて、
「勝手に節操を破ってみろ。」
 と片頬に微笑を含みてき。お通はその時|蒼《あお》くなりて、
「もう、破ろうにも破られません。しかし死、死ぬことは何時《なんどき》でも。」
 尉官はこれを聞きもあえず、
「馬鹿。」
 と激しくいいすくめつ。お通の首《うなじ》の低《た》るるを見て、
「従卒、家《うち》まで送ってやれ。」
 命ぜられたる従卒は、お通がみずから促したるまで、恐れて起《た》つことをだに得《え》せざりしなり。
 かくてその日の悲劇は終りつ。
 お通は家に帰りてより言行ほとんど平時《つね》のごとく、あるいは泣き、あるいは怨じて、尉官近藤の夫人たる、風采《ふうさい》と態度とを失うことをなさざりき。
 しかりし後《のち》、いまだかつて許されざりし里帰《さとがえり》を許されて、お通は実家に帰りしが、母の膝下《しっか》に来《きた》るとともに、張詰めし気の弛《ゆる》みけむ、渠《かれ》はあ
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