尉官は太《いた》く苛立《いらだ》つ胸を、強いて落着けたらんごとき、沈める、力ある音調もて、
「汝《おまえ》、よく娶《き》たな。」
 お通は少しも口籠《くちごも》らで、
「どうも仕方がございません。」
 尉官はしばらく黙しけるが、ややその声を高うせり。
「おい、謙三郎はどうした。」
「息災で居《お》ります。」
「よく、汝《おまえ》、別れることが出来たな。」
「詮方《しかた》がないからです。」
「なぜ、詮方がない。うむ。」
 お通はこれが答をせで、懐中《ふところ》に手を差入れて一通の書を取出し、良人の前に繰広げて、両手を膝に正してき。尉官は右手《めて》を差伸《さしのば》し、身近に行燈《あんどん》を引寄せつつ、眼《まなこ》を定めて読みおろしぬ。
 文字《もんじ》は蓋《けだ》し左《さ》のごときものにてありし。
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お通に申残し参らせ候、御身《おんみ》と近藤重隆殿とは許婚《いいなずけ》に有之《これあり》候
然《しか》るに御身は殊の外|彼《か》の人を忌嫌い候様子、拙者の眼に相見え候えば、女《むすめ》ながらも其由《そのよし》のいい聞け難くて、臨終《いまわ》の際まで黙し候
さ候えども、一旦親戚の儀を約束いたし候えば、義理堅かりし重隆殿の先人に対し面目なく、今さら変替《へんがえ》相成らず候あわれ犠牲《いけにえ》となりて拙者の名のために彼の人に身を任せ申さるべく、斯《こ》の遺言を認《したた》め候時の拙者が心中の苦痛を以て、御身に謝罪いたし候
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      月 日[#地から2字上げ]清川|通知《みちとも》
     お通殿
 二度三度繰返して、尉官は容《かたち》を更《あらた》めたり。
「通、吾《おれ》は良人だぞ。」
 お通は聞きて両手を支《つか》えぬ。
「はい、貴下《あなた》の妻でございます。」
 その時尉官は傲然《ごうぜん》として俯向《うつむ》けるお通を瞰下《みおろ》しつつ、
「吾のいうことには、汝《おまえ》、きっと従うであろうな。」
 此方《こなた》は頭《こうべ》を低《た》れたるまま、
「いえ、お従わせなさらなければ不可《いけ》ません。」
 尉官は眉を動かしぬ。
「ふむ。しかし通、吾を良人とした以上は、汝、妻たる節操は守ろうな。」
 お通は屹《きっ》と面を上げつ、
「いいえ、出来さえすれば破ります。」
 尉官は怒気心頭を衝《つ》きて烈火のご
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