「先生、私《わたくし》も、京子とともに無点本の水滸伝。」上杉先生が、「その隙《ひま》に、すいとんか、おでんを売れ。」「ははっ。」とこそは荷高似内、口をへの字に頤《あご》の下まで結んで鼻を一すすり、無念の思入で畳をすごすごと退《さが》る処は、旧派の花道の引込《ひっこ》みさ。」
「三枚目だな、我がお京さんを誰だと思うよ、取るに足らず。すると、まず、どこにも敵の心配はなしか。」
「……ところがある、あるんだ! 一人ある。」
弦光は猫板に握拳《にぎりこぶし》を、むずと出して、
「驚破《すわ》、驚破、その短銃《たんづつ》という煙草入を意気込んで持直した、いざとなると、やっぱり、辻町が敵なのか。」
「噴出さしちゃ不可《いけな》いぜ。私は最初《はな》から、気にも留めていなかった、まったくだ。いまこう真剣となると、黙っちゃいられない。対手《あいて》がある、美芸青雲派の、矢野《きみ》も知ってる名高い絵工《えかき》だ。」
三十
「――野土青麟《のづちせいりん》だよ。」
「あ、野土青麟か。」
「うむ、野土青麟だ。およそ世の中に可厭《いや》な奴《やつ》。」
「当代無類の気障《きざ》だ。」
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