かれては穏かでない。」
「教ゆ。授く。」
「……教ゆ。授く。気になる、気になる。」
「施す。」
「……施す、妙だ。いや、待った。待った。」
 と掌《てのひら》で押えて留めるとともに、今度は、ぐっと深く目を瞑《つむ》って、
「学海施一雪紅楼夢――や不可《いけね》え。あの髯《ひげ》が白い頸脚《えりあし》へ触るようだ。女教員渚の方は閑話休題として、前刻《さっき》入って行った氷月の小座敷に天狗《てんぐ》の面でも掛《かか》っていやしないか、悪く捻《ひね》って払子《ほっす》なぞが。大変だ、胸がどきどきして来たぞ。」
 弦光はわざとらしく胸をわななかせたと思うと、その胸を反《そ》らし、畳後《たたみうしろ》へ両の手をどさんと支《つ》いた。
「安心するがいい。誰が紅楼夢だときめたよ、一人で慌てているんじゃないか。一雪の習ってるのは水滸伝《すいこでん》だとさ、白文でね。」
「何、水滸伝。はてな、妙齢の姿色、忽然《こつねん》として剣侠《けんきょう》下地だ、うっかりしちゃいられない。」
 と面《おもて》を正しく、口元を緊《し》めて坐り直し、
「寝ているうちに、匕首《ひしゅ》が飛んで首を攫《さら》うんだ、恐るべし……どころでない、魂魄《こんぱく》をひょいと掴《つか》んで、血の道の薬に持って行《ゆ》く。それも、もう他事《ひとごと》ではない、既に今朝の雪の朝茶の子に、肝まで抜かれて、ぐったりとしているんだ。聞けば聞得で、なお有難い。その様子じゃ――調ったとして婚礼の時は、薙刀《なぎなた》の先払い、新夫人は錦《にしき》の帯に守刀というんだね。夢にでも見たいよ、そんなのを。……
 ……といううちにも、糸|的《こう》、糸的《きみ》はひとりで目の覚めた顔をして澄ましているが、内で話した、外で逢ったという気振《けぶり》も見せない癖に、よく、そんな、……お京さんいい名だなあ、その娘《こ》の駿河台の研学の科目なぞを知っているね。あいつ、高慢だことの、ツンとしているのと、口でけなして何とかじゃないのかい。刺違えるならここで頼む。お互に怪我はしても、生命《いのち》に別条のない決闘なら、立処《たちどころ》にしようと云うんだ。俺はもう目が据《すわ》っている、真剣だよ。」
「対手《あいて》にならないが、次第《わけ》は話そう。――それ、弁持の甘き、月府の酸《す》きさ、誰某《たれそれ》と……久須利苦生の苦きに至るまで、目下、素人堅気輩には用なしだ。誰が売女《くろうと》に好かれるか、それは知らないけれどもだよ。――塾の中に一人、自ら、新派の伊井|蓉峰《ようほう》に「似てるです。」と云って、頤《あご》を撫でる色白な鼻の突出た男がいる。映山先生が洩《も》れ聞いてね、渾名《あだな》して、曰く――荷高似内《にたかにない》――何だか勘平と伴内を捏合《こねあ》わせたようだけれど、おもしろかろう。ところがこれだけが素人ばりの、大の、しんし。」
「大のしんし、いい許《とこ》の息子、金《きん》ありかい。」
「お互に懐中は寂しいね、一杯おつぎよ、満々と。しんしと聞いていい許の息子かは慌て過ぎる、大晦日《おおみそか》に財布を落したようだ。簇《しんし》だよ、張物に使う。……押を強く張る事経師屋以上でね。着想に、文章に、共鳴するとか何とか唱えて、この男ばかりが、ちょいちょい、中洲の月村へ出向くのさ。隅田《おおかわ》に向いた中二階で、蒔絵《まきえ》の小机の前を白魚《しらお》船がすぐ通る、欄干に凭《もた》れて、二人で月を視《み》た、などと云う、これが、駿河台へ行く一雪の日取まで知っているんだ。
 黙《だんま》りでは相済まないと思って、「先生、私《わたくし》も、京子とともに無点本の水滸伝。」上杉先生が、「その隙《ひま》に、すいとんか、おでんを売れ。」「ははっ。」とこそは荷高似内、口をへの字に頤《あご》の下まで結んで鼻を一すすり、無念の思入で畳をすごすごと退《さが》る処は、旧派の花道の引込《ひっこ》みさ。」
「三枚目だな、我がお京さんを誰だと思うよ、取るに足らず。すると、まず、どこにも敵の心配はなしか。」
「……ところがある、あるんだ! 一人ある。」
 弦光は猫板に握拳《にぎりこぶし》を、むずと出して、
「驚破《すわ》、驚破、その短銃《たんづつ》という煙草入を意気込んで持直した、いざとなると、やっぱり、辻町が敵なのか。」
「噴出さしちゃ不可《いけな》いぜ。私は最初《はな》から、気にも留めていなかった、まったくだ。いまこう真剣となると、黙っちゃいられない。対手《あいて》がある、美芸青雲派の、矢野《きみ》も知ってる名高い絵工《えかき》だ。」

       三十

「――野土青麟《のづちせいりん》だよ。」
「あ、野土青麟か。」
「うむ、野土青麟だ。およそ世の中に可厭《いや》な奴《やつ》。」
「当代無類の気障《きざ》だ。」

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