、膝のめりやすを溢出《はみだ》させて、
「まるで、こりゃ値になりませんぞ。」
原著者は驚いたろう。
「しかし買うとして、いくらですか。」
――途方もない値をつけた。つけられた方は、呆れるより、いきなり撲《なぐ》るべき蹴倒し方だったが、傍《かたわら》に、ほんのりしている丸髷《まげ》ゆえか、主人の錆びた鋲《びょう》のような眼色《めつき》に恐怖《おそれ》をなしたか、気の毒な学生は、端銭《はした》を衣兜《かくし》に捻込《ねじこ》んだ。――三日目に、仕入の約二十倍に売れたという
味をしめて、古本を買込むので、床板を張出して、貸本のほかに、その商《あきない》をはじめたのはいいとして、手馴《てな》れぬ事の悲しさは、花客《とくい》のほかに、掻払《かっぱら》い抜取りの外道《げどう》があるのに心づかない。毎日のように攫《さら》われる。一度の、どか利得《もうけ》が大穴になって、丸髷だけでは店が危い。つい台所用に女房が立ったあとへは、鋲の目が出て髯を揉むと、「高利貸《あいす》が居るぜ。」とか云って、貸本の素見《ひやかし》までが遠ざかる。当り触り、世渡《よわたり》は煩《むず》かしい。が近頃では、女房も見張りに馴れたし、亭主も段々古本市だの場末の同業を狙って、掘出しに精々出あるく。
――好《い》い天気の、この日も、午飯《ひる》すぎると、日向《ひなた》に古足袋の埃《ほこり》を立てて店を出たが、ひょこりと軒下へ、あと戻り。
「忘れものですか。」
「うふふ、丸髷《まげ》ども、よう出来たたい。」
「いやらし。」
と顔をそらしながら、若い女房の、犠牲《いけにえ》らしいあわれな媚《こび》で、わざと濡色の髱《たぼ》を見せる。
「うふふ。」と鳥打帽の頭《こうべ》を竦《すく》めて、少し猫背で、水道橋の方へ出向いたあとで。……
四
遅い午餉《ひる》だったから、もう二時下り。亭主の出たあと、女房は膳《ぜん》の上で温茶《ぬるちゃ》を含んで、干ものの残りに皿をかぶせ、余った煮豆に蓋《ふた》をして、あと片附は晩飯《ばん》と一所。で、拭布《ふきん》を掛けたなり台所へ突出すと、押入続きに腰窓が低い、上の棚に立掛けた小さな姿見で、顔を映して、襟を、もう一息掻合わせ、ちょっと縮れて癖はあるが、髪結《かみゆい》も世辞ばかりでない、似合った丸髷《まるまげ》で、さて店へ出た段取だったが……
――遠くの橋を牛車《うしぐるま》でも通るように、かたんかたんと、三崎座の昼芝居の、つけを打つのが合間に聞え、囃《はやし》の音がシャラシャラと路地裏の大溝《おおどぶ》へ響く。……
裏長屋のかみさんが、三河島の菜漬を目笊《めざる》で買いに出るにはまだ早い。そういえば裁縫《おはり》の師匠の内の小女《こおんな》が、たったいま一軒隣の芋屋から前垂《まえだれ》で盆を包んで、裏へ入ったきり、日和のおもてに人通りがほとんどない。
真向うは空地だし、町中は原のなごりをそのまま、窪地のあちこちには、草生《くさはえ》がむらむらと、尾花は見えぬが、猫じゃらしが、小糠虫《こぬかむし》を、穂でじゃれて、逃水ならぬ日脚《ひあし》の流《ながれ》が暖く淀《よど》んでいる。
例の写真館と隣合う、向う斜《ななめ》の小料理屋の小座敷の庭が、破れた生垣を透いて、うら枯れた朝顔の鉢が五つ六つ、中には転ったのもあって、葉がもう黒く、鶏頭ばかり根の土にまで日当りの色を染めた空を、スッスッと赤蜻蛉《あかとんぼ》が飛んでいる。軒前《のきさき》に、不精たらしい釣荵《つりしのぶ》がまだ掛《かか》って、露も玉も干乾《ひから》びて、蛙の干物のようなのが、化けて歌でも詠みはしないか、赤い短冊がついていて、しばしば雨風を喰《くら》ったと見え、摺切《すりき》れ加減に、小さくなったのが、フトこっち向に、舌を出した形に見える。……ふざけて、とぼけて、その癖何だか小憎らしい。
立寄る客なく、通りも途絶えた所在なさに、何心なく、じっと見た若い女房が、遠く向うから、その舌で、頬を触るように思われたので、むずむずして、顔を振ると、短冊が軽く揺れる。頤《あご》で突きやると、向うへ動き、襟を引くと、ふわふわと襟へついて来る。……
「……まあ……」
二三度やって見ると、どうも、顔の動くとおりに動く。
頬のあたりがうそ痒《がゆ》い……女房は擽《くすぐった》くなったのである。
袖で頬をこすって、
「いやね。」
ツイと横を向きながら、おかしく、流盻《ながしめ》が密《そっ》と行《ゆ》くと、今度は、短冊の方から顎《あご》でしゃくる。顎ではない、舌である。細く長いその舌である。
いかに、短冊としては、詩歌に俳句に、繍口錦心《しゅうこうきんしん》の節を持すべきが、かくて、品性を堕落し、威容を失墜したのである。
が、じれったそうな女房は、上気した顔を向け直
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