して、あれ性《しょう》の、少し乾いた唇でなぶるうち――どうせ亭主にうしろ向きに、今も髷《まげ》を賞《ほ》められた時に出した舌だ――すぼめ口に吸って、濡々と呂《くち》した。
 ――こういう時は、南京豆ほどの魔が跳《おど》るものと見える。――
 パッと消えるようであった、日の光に濃く白かった写真館の二階の硝子窓《がらすまど》を開けて、青黒い顔の長い男が、中折帽を被《かぶ》ったまま、戸外《おもて》へ口をあけて、ぺろりと唇を舐《な》めたのとほとんど同時であったから、窓と、店とで思わず舌の合った形になる。
 女房は真うつむけに突伏《つッぷ》した、と思うと、ついと立って、茶の間へ遁《に》げた。着崩れがしたと見え、褄《つま》が捻《よじ》れて足くびが白く出た。

       五

「ごめんなさい。」
 返事を、引込《ひっこ》めた舌の尖《さき》で丸めて、黙《だんま》りのまま、若い女房が、すぐ店へ出ると……文金の高島田、銀の平打《ひらうち》、高彫《たかぼり》の菊簪《きくかんざし》。十九ばかりの品のあるお嬢さんが、しっとり寂しいほど、着痩《きや》せのした、縞《しま》お召に、ゆうぜんの襲着《かさねぎ》して、藍地《あいじ》糸錦の丸帯。鶸《ひわ》の嘴《くち》がちょっと触っても微《かすか》な菫色《すみれいろ》の痣《あざ》になりそうな白玉椿の清らかに優しい片頬を、水紅色《ときいろ》の絹|半※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]《ハンケチ》でおさえたが、且《かつ》は桔梗《ききょう》紫に雁金《かりがね》を銀で刺繍《ぬいとり》した半襟で、妙齢《としごろ》の髪の艶《つや》に月の影の冴えを見せ、うつむき加減の頤《あぎと》の雪。雪のすぐあとへは惜しいほど、黒塗の吾妻下駄《あずまげた》で、軒かげに斜《ななめ》に立った。
 実は、コトコトとその駒下駄の音を立てて店前《みせさき》へ近づくのに、細《ほっそ》り捌《さば》いた褄から、山茶花《さざんか》の模様のちらちらと咲くのが、早く茶の間口から若い女房の目には映ったのであった。

 作者が――謂《い》いたくないことだけれど、その……年暮《くれ》の稼ぎに、ここに働いている時も、昼すぎ三時頃――、ちょうど、小雨の晴れた薄靄《うすもや》に包まれて、向う邸《やしき》の紅《あか》い山茶花が覗《のぞ》かれる、銀杏《いちょう》の葉の真黄色《まっきいろ》なのが、ひらひらと散って来る、お嬢さんの肌についた、ゆうぜんさながらの風情も可懐《なつか》しい、として、文金だの、平打だの、見惚《みと》れたように呆然《ぽかん》として、現在の三崎町…あの辺町《あたり》の様子を、まるで忘れていたのでは、相済むまい。
 ――場所によると、震災後の、まだ焼原《やけのはら》同然で、この貸本屋の裏の溝が流れ込んだ筈《はず》の横川などは跡も見えない。古跡のつもりで、あらかじめ一度見て歩行《ある》いた。ひょろひょろものの作者ごときは、外套《がいとう》を着た蟻のようで、電車と自動車が大昆虫のごとく跳梁奔馳《ちょうりょうほんち》する。瓦礫《がれき》、烟塵《えんじん》、混濁の巷《ちまた》に面した、その中へ、小春の陽炎《かげろう》とともに、貸本屋の店頭《みせさき》へ、こうした娘姿を映出すのは――何とか区、何とか町、何とか様ア――と、大入の劇場から女の声の拡声器で、木戸口へ呼出すように楽には行《ゆ》かない。なかなかもって、アテナ洋墨《インキ》や、日用品の唐墨の、筆、ペンなどでは追っつきそうに思われぬ。彫るにも刻むにも、鋤《すき》と鍬《くわ》だ。
 さあ、持って来い、鋤と鍬だ。
 これだと、勢い汗|膏《あぶら》の力作とかいう事にもなって、外聞が好《い》い。第一、時節がら一般の気うけが好《よ》かろう。
 鋤と鍬だ、と痩腕で、たちまち息ぜわしく、つい汗になる処から――山はもう雪だというのに、この第一回には、素裸の思案入道殿をさえ煩わした。
 が、再び思うに、むやみと得物《えもの》を振廻しては、馴《な》れない事なり、耕耘《こううん》の武器で、文金に怪我をさせそうで危かしい。
 また飜《ひるがえ》って、お嬢さんの出のあたりは――何をいうのだ――かながきの筆で行《ゆ》く。
「あの……此店《こちら》に……」
 若い女房が顔を見ると、いま小刻みに、長襦袢《ながじゅばん》の色か、下着の褄か、はらはらと散りつつ急いで入った、息づかいが胸に動いて、頬の半※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]《ハンケチ》が少し揺れて、
「辻町、糸七の――『たそがれ』――というのがおありになって。」
 と云った。
「おいで遊ばせ。」
 と若い女房、おくれ馳《ば》せの挨拶をゆっくりして、
「ございますの。……ですけれど、絡《まとま》りました一冊本ではありません……あの、雑誌の中に交って出ていますのでして。」
「ええ、そうです
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