よ。」
 と水紅色の半※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]がまたゆれる。

       六

「ちょいちょい、お借り下さる方がございまして、よく出ますから。……唯今《ただいま》見ますけれど。」
 女房は片膝立ちに腰を浮かしながら能書《のうがき》をいう。
「……私も読みたい読みたいと存じながら、商売もので、つい慾張《よくば》りまして、ほほほ、お貸し申します方が先へ立ちますけれど。……何ですか、お女郎の心中ものだとか申しますのね。」
「そうですって。……『たそがれ』……というのが、その娼妓《しょうぎ》――遊女《おいらん》の名だって事です。」
 と、凜《りん》とした眦《まなじり》の目もきっぱりと言った。簪の白菊も冷いばかり、清く澄んだ頬が白い。心中にも女郎にも驚いた容子《ようす》が見えぬ。もっともこのくらいな事を気にしては、清元も、長唄も、文句だって読めなかろうし、早い話が芝居の軒も潜《くぐ》れまい。が、うっかり小説の筋を洩《も》らして、面と向ったから、女房が却って瞼《まぶた》を染めた。
 棚から一冊抜取ると、坐り直して、売りものに花だろう、前垂に据えて、その縮緬《ちりめん》の縞《しま》でない、厚紙の表紙を撫《な》でた。
「どうぞ、お掛けなさいまして、まあ、どうぞ。」
 はなからその気であったらしい、お嬢さんは框《かまち》へ掛けるのを猶予《ためら》わなかった。帯の錦は堆《たか》い、が、膝もすんなりと、着流しの肩が細い。
「ちょうどいい処で、あの、ゆうべお客様から返ったばかりでございますの。それも書生さんや、職人衆からではございませんの。」
 娘客の白い指の、指環《ゆびわ》を捜すように目で追って、
「中坂下からいらっしゃいます、紫|鹿子《かのこ》のふっさりした、結綿《ゆいわた》のお娘ご、召した黄八丈なぞ、それがようお似合いなさいます。それで、お袴《はかま》で、すぐお茶の水の学生さんなんでございますって。」
「その方。……」
 女房の膝の方へは手も出さず、お嬢さんは、しとやかに、
「その作者が、贔屓《ひいき》?」
 と莞爾《にっこり》した。
 辻町糸七、よく聞けよ。
「は?……」
 貸本屋の客には今までほとんど例のない、ものの言葉に、一度聞返して、合点《のみこ》んで、
「別にそうと限ったわけではございません。何でもよくお読みになりますの。でも、その、ゆうべおいでなさいました時、「たそがれ。――いいのね。」とおっしゃいます。……晩方でございましょう。変に暗くて気味が悪し、心細し、といいますうちにも、立込みまして、忙《せわ》しくって不可《いけ》ませんと申しましたら、お笑いなさいましたんでございます。長屋世帯はすぐそれですから、ほほほ。小説の題の事だったのでございますもの。大好きな女の名でいらっしゃるんですって。……田舎源氏、とかにもありますそうです。その時、京の五条とか三条あたりとかの暮方の、草の垣根に、雪白な花の、あわれに咲いたお話をききましたら、そのいやな入相《いりあい》が、ほんのりと、夕顔ほどに明るく、白くなりましてございましてね。」
 女房は、ふと気がさしたか、町通りの向う角へ顔を向けた、短冊の舌は知らん顔で、鶏頭が笑っている。写真館の硝子窓は静《しずか》に白い日を吸って。……
「……古寺の事もうかがいました。清元にございますってね。……ところどころ、あの、ほんとうに身に沁《し》みますようですから、そのお娘ごにおねだりして、少しばかり、巻紙の端へ。――あ、そうそう、この本の中へ挟んで、――まあ、いい事をいたしました。大事に蔵《しま》って置こうと存じながら、つい、うっかりして、まあ、勿体ないこと。」
 と、軽く前髪へあてたのである。念のため『たそがれ』の作者に言おう。これは糸七を頂いたのでは決してない。……

       七

「拝見な。」
「は、どうぞ。」
 雑誌に被《かぶ》せた表紙の上へ、巻紙を添えて出す、かな交りの優しい書《て》で、
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――折しも月は、むら雲に、影うす暗きをさいわいと、傍《かたえ》に忍びてやりすごし、尚《なお》も人なき野中の細道、薄茅原《すすきかやはら》、押分け押分け、ここは何処《いずこ》と白妙《しろたえ》の、衣打つらん砧《きぬた》の声、幽《かすか》にきこえて、雁音《かりがね》も、遠く雲井に鳴交わし、風すこし打吹きたるに、月|皎々《こうこう》と照りながら、むら雨さっと降りいづれば――
[#ここで字下げ終わり]
 水茎の墨の色が、はらはらとお嬢さんの睫毛《まつげ》を走った。一露瞼にうけたように、またたきして、
「すぐこのあとへ、しののめの鬼が出るんですのね、可恐《こわ》いんですこと……。」
 目白からは聞えまい。三崎座だろう、釣鐘がボーンと鳴る。
 柳亭種彦のその文章を、そっと包むよう
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