のばずのいけ》を左に、三枚橋、山下、入谷《いりや》を一のしに、土手へ飛んだ。……当時の事の趣も、ほうけた鼓草《たんぽぽ》のように、散って、残っている。
近頃の新聞の三面、連日に、偸盗《ちゅうとう》、邪淫《じゃいん》、殺傷の記事を読む方々に、こんな事は、話どころか、夢だとも思われまい。時世は移った。……
ところで、天保銭吉原の飛行《ひぎょう》より、時代はずっと新しい。――ここへ点出しようというのは、件《くだん》の中坂下から、飯田町|通《どおり》を、三崎町の原へ大斜めに行《ゆ》く場所である。が、あの辺は家々の庭背戸が相応に広く、板塀、裏木戸、生垣の幾曲り、で、根岸の里の雪の卯《う》の花、水の紫陽花《あじさい》の風情はないが、木瓜《ぼけ》、山吹の覗かれる窪地の屋敷町で、そのどこからも、駿河台《するがだい》の濃い樹立の下に、和仏英女学校というのの壁の色が、凩《こがらし》の吹く日も、暖かそうに霞んで見えて、裏表、露地の処々《ところどころ》から、三崎座の女芝居の景気|幟《のぼり》が、茜《あかね》、浅黄《あさぎ》、青く、白く、また曇ったり、濁ったり、その日の天気、時々の空の色に、ひらひらと風次第に靡《なび》くが見えたし、場処によると――あすこがもう水道橋――三崎|稲荷《いなり》の朱の鳥居が、物干場の草原だの、浅蜊《あさり》、蜆《しじみ》の貝殻の棄てたも交る、空地を通して、その名の岬に立ったように、土手の松に並んで見通された。
……と見て通ると、すぐもう広い原で、屋敷町の屋敷を離れた、家並《やなみ》になる。まだ、ほんの新開地で。
そこいらに、小川という写真屋の西洋館が一つ目立った。隣地の町角に、平屋|建《だて》の小料理屋の、夏は氷店《こおりみせ》になりそうなのがあるのと、通りを隔てた一方の角の二階屋に、お泊宿の軒行燈《のきあんどん》が見える。
お泊宿から、水道橋の方へ軒続きの長屋の中に、小さな貸本屋の店があって……お伽堂《とぎどう》……びら同然の粗《ざつ》な額が掛けてある。
お伽堂――少々気になる。なぜというに、仕入ものの、おとしの浅い箱火鉢の前に、二十六七の、色白で、ぽっとりした……生際はちっと薄いが、桃色の手柄の丸髷《まるまげ》で、何だか、はれぼったい、瞼《まぶた》をほんのりと、ほかほかする小春日の日当りに表を張って、客欲しそうに坐っているから。……
羽織も、着ものも、おさすりらしいが、柔《やわらか》ずくめで、前垂《まえだれ》の膝も、しんなりと軟《やわらか》い。……その癖半襟を、頤《あご》で圧《お》すばかり包ましく、胸の紐の結びめの深い陰から、色めく浅黄の背負上《しょいあげ》が流れたようにこぼれている。解けば濡れますが、はい、身はかたく緊《し》めて包んで置きます、といった風容《ふう》。……これを少々気にしたが悪いだろうか……お伽堂の店番を。
三
何、別に仔細《しさい》はない。客引に使った中年増でもなければ、手軽な妾《めかけ》が世間体を繕っているのでもない。お伽堂というのは、この女房の名の、おときをちょっと訛《なま》ったので。――勿論亭主の好みである。
つい近頃、北陸の城下町から稼ぎに出て来た。商売往来の中でも、横町へそれた貸本屋だが、亭主が、いや、役人上りだから主人といおう、県庁に勤めた頃、一切猟具を用いず、むずと羽掻《はがい》をしめて、年紀《とし》は娘にしていい、甘温、脆膏《ぜいこう》、胸白《むなじろ》のこの鴨《かも》を貪食した果報ものである、と聞く。が、いささか果報焼けの気味で内臓を損じた。勤労に堪えない。静養かたがた女で間に合う家業でつないで、そのうち一株ありつく算段で、お伽堂の額を掛けたのだそうである。
開業|当初《のっけ》に、僥倖《ぎょうこう》にも、素晴らしい利得《もうけ》があった。
「こちらじゃ貸すばかりで、買わないですか。」
学生が一人、のっそり立ち、洋書を五六冊|引抱《ひんだ》いて突立《つッた》ったものである。
「は、おいで遊ばしまし。」
と、丁寧に、三指もどきのお辞儀をして、
「あの、もしえ。」
と初々《ういうい》しいほど細い声を掛けると、茶の間の悪く暗い戸棚の前で、その何かしら――内臓病者補壮の食はまだ考えない、むぐむぐ頬張っていた士族|兀《はげ》の胡麻塩《ごましお》で、ぶくりと黄色い大面《おおづら》のちょんびり眉が、女房の古らしい、汚れた半※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]《ハンケチ》を首に巻いたのが、鼠色の兵子帯《へこおび》で、ヌーと出ると、捻《ひね》っても旋《ねじ》っても、眦《めじり》と一所に垂れ下る髯の尖端《とっさき》を、グイと揉《も》み、
「おいでい。」
と太い声で、右の洋冊《ようしょ》を横縦に。その鉄壺眼《かなつぼまなこ》で……無論読めない。貫目を引きつつ
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