かま》で、すっと翳《さ》す、姿は好いね。処をだよ。……呼べば軒下まで俥《くるま》の自由につく処を、「お俥。」となぜいわない。「お傘。」と来ては、茶屋めが、お互の懐中《ふところ》を見透かした、俥賃なし、と睨《にら》んだり、と思ったから、そこは意地だよ、見得もありか、土手まで雪見だ、と仲之町で袖を払った。」
「私は、すぼめた。」
「ははは、借りものだっけな、皮肉をいうなよ。息子はおとなしく内輪が好い。がつらつら思うに、茶屋の帳場は婆さんか、痘痕《あばた》の亭主に限ります。もっともそれじゃ、繁昌はしまいがね。早いから女中はまだ鼾《いびき》で居る。名代の女房の色っぽいのが、長火鉢の帳場奥から、寝乱れながら、艶々とした円髷《まるまげ》で、脛《はぎ》も白やかに起きてよ、達手巻《だてまき》ばかり、引掛《ひっか》けた羽織の裏にも起居《たちい》の膝にも、浅黄縮緬《あさぎちりめん》がちらちらしているんだ。」……
二十三
つれづれ草の作者に音が似ているから、法師とも人が呼ぶ、弦光法師は、盃《さかずき》を置き息をついて、
「しかも件《くだん》の艶なのが、あまつさえ大概番傘の処を、その浅黄をからめた白い手で、蛇目傘《じゃのめ》と来た。祝儀なしに借りられますか。且つまたこれを返す時の入費が可恐《おそろ》しい。ここしばらくあてなしなんだからね。」
「そこで、雪の落人《おちゅうど》となったんだね。私は見得も外聞も要らない。なぜ、この降るのに傘を借りないだろうと、途中では怨んだけれど、外套の頭巾をはずして被《かぶ》せてくれたのには感謝した、烏帽子《えぼし》をつけたようで景気が直った。」
「白く群がる朝返りの中で、土手を下りた処だったな。その頭巾の紐をしめながらどこで覚えたか――一段と烏帽子が似合いて候。――と器用な息子だ。しかも節なしはありがたかった。やがて静の前に逢わせたいよ。」
「静といえば。」
「乗出すなよ。こいつ、昨夜《ゆうべ》の遊女《おいらん》か。」
「そんなものは名も知らない。てんで顔を見せないんだから。」
「自棄《やけ》をいうなよ、そこが息子の辛抱どころだ。その遊女《おんな》に、馴染《なじみ》をつけて、このぬし辻町様(おん箸入)に、象牙が入って、蝶足の膳につかなくっちゃ。……もっともこの箸、万客に通ずる事は、口紅と同じだがね、ははは。」
「おって教授に預ろうよ。そんな事より、私のいうのは、昨夜《ゆうべ》それ引前《ひけまえ》を茶屋へのたり込んだ時、籠洋燈《かごらんぷ》の傍《わき》で手紙を書いていた、巻紙に筆を持添えて……」
「写実、写実。」
「目の凜《りん》とした、一の字眉の、瓜実顔《うりざねがお》の、裳《すそ》を引いたなり薄い片膝立てで黒縮緬の羽織を着ていた、芸妓島田《げいこしまだ》の。」
「うむ、それだ。それは婀娜《あだ》なり……それに似て、これは素研清楚《こうしょうせいそ》なり、というのを不忍の池で。……」
と、半ば口で消して、
「さあ、お酌だ。重ねたり。」
「あれは、内芸者というんだろう。ために傘を遠慮した茶屋の女房なぞとは、較べものにならなかったよ。」
「よくない、よくない量見だ。」
と、法師は大きく手を振って、
「原稿料じゃ当分のうち間に合いません。稿料|不如《しかず》傘二本か。一本だと寺を退《ひ》く坊主になるし、三本目には下り松か、遣切《やりき》れない。」
と握拳《にぎりこぶし》で、猫板ドンとやって、
「糸ちゃん! お互にちっと植上げをする工夫はないかい。」
と、喟然《きぜん》として歎じて、こんどは、ぐたりとその板へ肘《ひじ》をつく。
「へい、へい、遅《おそな》わりましてござります。」
爪の黒ずんだ婆さんの、皺頸《しわくび》へ垢手拭《あかてぬぐい》を巻いたのが、乾《から》びた葡萄豆《ぶどうまめ》を、小皿にして、兀《は》げた汁椀を二つ添えて、盆を、ぬい、と突出した。片手に、旦那様|穿換《はきか》えの古足袋を握っている。
「ああ、これだ。」と、喟然として歎じて、こんどは、畳へ手をついた。
この傭《やとい》にさえ、弦光法師は配慮した。……俥賃には足りなくても、安肉四半斤……二十匁以上、三十匁以内だけの料はある。竹の皮包を土産らしく提げて帰れば、廓《さと》から空腹《すきばら》だ、とは思うまい。――内証だが、ここで糸七は実は焼芋を主張した。粮《かて》と温石《おんじゃく》と凍餓共に救う、万全の策だったのである、けれども、いやしくも文学者たるべきものの、紅玉《ルビー》、緑宝玉《エメラルド》、宝玉を秘め置くべき胸から、黄色に焦げた香《におい》を放って、手を懐中《ふところ》に暖めたとあっては、蕎麦屋《そばや》の、もり二杯の小婢の、ぼろ前垂《まえだれ》の下に手首を突込むのと軌を一にする、と云って斥《しりぞ》けた。良策の用い
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