|広袖《どてら》に包《くる》まって、火鉢にしがみついて、肩をすくめているのであった。
 が、幸《さいわい》に窓は明《あかる》い。閉め込んだ障子も、ほんのりと桃色に、畳も小庭の雪影に霞を敷いた。いま、忍川の日も紅《くれない》を解き、藍染川の雲も次第に青く流れていよう。不忍《しのばず》の池の風情が思われる。
 上野の山も、広小路にも、人と車と、一斉《いっとき》に湧《わ》き動揺《どよめ》いて、都大路を八方へ溢《あふ》れる時、揚出しの鍋は百人の湯気を立て、隣近《となりぢか》な汁粉屋、その氷月の小座敷には、閨秀二人が、雪も消えて、衣紋《えもん》も、褄《つま》も、春の色にやや緩《と》けたであろう。
 先刻《さっき》に氷月の白い柳の裏木戸と、遠見の馬場の柵際と、相望んでから、さて小半時|経《た》っている。
 崖下ながら、ここの屋根に日は当るが、軒も廂《ひさし》もまだ雫をしないから、狭いのに寂然《しん》とした平屋の奥の六畳に、火鉢からやや蒸気《いきれ》が立って、炭の新しいのが頼もしい。小鍋立《こなべだて》というと洒落に見えるが、何、無精たらしい雇婆《やといばあ》さんの突掛《つッか》けの膳で、安ものの中皿に、葱《ねぎ》と菎蒻《こんにゃく》ばかりが、堆《うずたか》く、狩野派末法の山水を見せると、傍《かたわら》に竹の皮の突張《つッぱ》った、牛の並肉の朱《あか》く溢出《はみで》た処は、未来派尖鋭の動物を思わせる。

       二十二

「仰せにゃ及ぶべき。そうよ、誰も矢野がふられたとは言やしない。今朝――先刻《さっき》のあの形は何だい。この人、帰したくない、とか云って遊女《おんな》が、その帯で引張《ひっぱ》るか、階子段《はしごだん》の下り口で、遁《に》げる、引く、くるくる廻って、ぐいと胸で抱合った機掛《きっかけ》に、頬辺《ほっぺた》を押着《おッつ》けて、大きな結綿《ゆいわた》の紫が垂れ掛《かか》っているじゃないか。その顔で二人で私を見て、ニヤニヤはどうしたんだ、こっちは一人だぜ。」
「そうずけずけとのたまうな、はははは談じたまうなよ、息子は何でも内輪がいい。……まずお酌だ。」
 いかがな首尾だか、あのくらい雪にのめされながら、割合に元気なのは、帰宅早々婆さんを使いに、角店の四方《よも》から一升徳利を通帳《かよい》という不思議な通力で取寄せたからで。……これさえあれば、むかしも今も、狸だって酒は呑める。
 二人とも冷酒《ひや》で呷《あお》った。
 やがて、小形の長火鉢で、燗《かん》もつき、鍋も掛《かか》ったのである。
「あれはね、いいかい、這般《しゃはん》の瑣事《さじ》はだ、雪折笹にむら雀という処を仕方でやったばかりなんだ。――除《わり》の二の段、方程式のほんの初歩さ。人の見ている前の所作なんぞ。――望む処は、ひけ過ぎの情夫《まぶ》の三角術、三蒲団の微分積分を見せたかった……といううちにも、何しろ昨夜《ゆうべ》は出来が悪いのさ。本来なら今朝の雪では、遊女《おんな》も化粧を朝直しと来て、青柳か湯豆府とあろう処を、大戸を潜《くぐ》って、迎《むかえ》も待たず、……それ、女中が来ると、祝儀が危い……。一目散に茶屋まで仲之町を切って駆けこんだろう。お同伴《つれ》は、と申すと、外套なし。」
「そいつは打殺《ぶちころ》したのを知ってる癖に。」
「萌《きざ》した悪心の割前の軍用金、分っているよ、分っている……いるだけに、五つ紋の雪びたしは一層あわれだ、しかも借りものだと言ったっけかな。」
「春着に辛うじて算段した、苦生《にがせい》の一張羅さ。」
「苦生?……」
「知ってるじゃないか、月府玄蝉、弁持十二。」
「好《い》い、好い。」
「並んだ中にいつも陰気で、じめじめして病人のようだからといって、上杉先生が、おなじく渾名《あだな》して――久須利《くすり》、苦生《くせい》。」
「ああ、そう、久須利か。」
「くせえというようで悪いから、皆《みんな》で、苦生《にがせい》、苦生だよ。」
「さてまたさぞ苦《にが》る事だろう、ほうしょは折目|摺《ず》れが激しいなあ。ああ、おやおや、五つ紋の泡が浮いて、黒の流れに藍《あい》が兀《は》げて出た処は、まるで、藍瓶《あいがめ》の雪解だぜ。」
「奇絶、奇絶。――妙とお言いよ。」
「妙でないよ、また三馬か。」
「いい燗だ。そろそろ、トルストイ、ドストイフスキーが煮えて来た。」
「やけを言うなというに。そのから元気を見るにつけても、年下の息子を悩ませ、且つその友達を苦らせる、(一張羅だと聞けばかなしも。)我ながら情《なさけ》ない寂しい声だな。――懺悔《ざんげ》をするがね。茶屋で、「お傘を。」と言ったろう。――「お傘を」――家来どもが居並んだ処だと、この言《ことば》は殿様に通ずるんだ、それ、麻裃《あさがみしも》か、黒羽二重《くろはぶたえ》お袴《は
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