池の端へ出て、揚出しわきの、あの、どんどんの橋を渡って、正面に傘を突翳《つきさ》して来たんでしょう。ぶつかりそうに、後縋《うしろすが》りに、あの二人に。
おや……帽子はすっぽりでも、顔は分りましたから、ちょっと挨拶はしましたけれど、御堂《みどう》の方へ心はせきます。それにお連れがまるで知らない人ですから、それなり黙ってさ。それだって、様子を見ただけでも、お久しぶりとも、第一、お早う、とも言えた義理じゃありませんわ。」
「どうしたんでしょう、こんな朝……雪見とでもいうのかしら。」
「あなたもあんまりお嬢さんね。――吉原の事を随筆になすったじゃありませんか。」
「いやです、きまりの悪いこと。……親類に連れられて、浅草から燈籠《とうろう》を見に行っただけなんです、玉菊の、あの燈籠のいわれは可哀《あわれ》ですわね。」
「その燈籠は美しく可哀だし、あの落武者……極《きま》っていますよ、吉原がえりの落武者は、みじめにあわれだこと。あの情《なさけ》ない様子ったら。おや、立停りましたよ、また――それ、こっちを見ています。挨拶――およしなさい、連《つれ》がありますから。どんなことを言出そうも知れません。糸七さん一人だって、あなたは仲が悪いんでしょう。おなじ雑誌に、その随筆の、あの人、悪口を記《か》いたじゃありませんか。」
「よくご存じですこと。」
簪《かんざし》を挿込むと、きりりと一文字にひそめた眉を、隠すように、傘を取って、熟《じっ》と、糸七とその連を視《み》た。
二十一
「しかし、しかしだね、(雪見と志した処が、まだしも)……何とかいったっけ、そうだ(……まだしも、ふ憫《びん》だ。)」
「あわれ、憫然というやつかい。」
「やっぱり、まだしも、ふ憫だ。――(いや、ますます降るわえ、奇絶々々。)と寒さにふるえながら牛骨が虚飾《みえ》をいうと(妙。)――と歯を喰切《くいしば》って、骨董《こっとう》が負惜しみに受ける処だ。
またあたかも三馬の向島の雪景色とおなじように、巻込まれた処へ、(骨董子、向うから来るのは確《たしか》に婦人だぜ。)と牛骨がいうと、(さん候この雪中を独歩するもの、俳気のある婦人か、さては越《こし》の国にありちゅう雪女なるべし、)傭《やとい》お針か、産婆だろう、とある処へ。……聞いたら怒るだろう、……バッタリ女教師の渚女史にぶつかったなぞは――(奇絶、奇絶。)妙……とお言いよ。」
「言えないよ。女作家の事はまた、べつとして……馬鹿々々しいよ。」
「三馬(式亭)が馬鹿々々しい、といって……女郎買に振られて帰ったこの朝だ。俥賃《くるまちん》なしの大雪に逢って、飜訳ものの、トルストイや、ツルゲネーフと附合ったり、ゲーテ、シルレルを談じたって、何の役に立つものか。そこへ行《ゆ》くと三馬だ。お馴染《なじみ》がいにいくらか、景気をつけてくれる。――「人間万事嘘誕計《にんげんばんじうそばっかり》」――骨董と牛骨が向島へ雪見の洒落で、ふられた雪を吹飛ばそう。」
「外聞の悪いことをいうなよ、雪は知らないが、ふられたのは俺じゃないぜ。」
と、大島の小袖に鉄無地の羽織で、角打の紐を縦に一扱《ひとしご》き扱いたのは、大学法科出の新学士。肩書の分限《ぶげん》に依って職を求むれば、速《すみやか》に玄関を構えて、新夫人にかしずかるべき処を、僻《へき》して作家を志し、名は早く聞えはするが、名実あい合《かな》わず、砕いて言えば収入《みいり》が少いから、かくの始末。藍染川と、忍川の、晴れて逢っても浮名の流れる、茅町《かやちょう》あたりの借屋に帰って、吉原がえりの外套を、今しがた脱いだところ。姓氏は矢野|弦光《げんこう》で、対手《あいて》とは四つ五つ長者である。
さし向って、三馬とトルストイをごっちゃに饒舌《しゃべ》る、飜訳者からすれば、不埒《ふらち》ともいうべき若いのは、想像でも知れた、辻町糸七。道づれなしに心中だけは仕兼ねない、身のまわり。ほうしょの黒の五つ紋(借りもの)を鴨居《かもい》の釘に剥取《はぎと》られて、大名縞とて、笑わせる、よれよれ銘仙《めいせん》の口綿一枚。素肌の寒さ。まだ雪の雫《しずく》の干《ひ》ない足袋は、ぬれ草鞋《わらじ》のように脱いだから、素足の冷たさ。実は、フランネルの手首までの襯衣《しゃつ》は着て出たが、洗濯をしないから、仇汚《あだよご》れて、且つその……言い憎いけれど、少し臭う。遊女《おいらん》に嫌われる、と昨宵《ゆうべ》行きがけに合乗俥《あいのりぐるま》の上で弦光がからかったのを、酔った勢い、幌《ほろ》の中で肌脱ぎに引きかなぐり、松源の池が横町にあるあたりで威勢よく、ただし、竜どころか、蚤《のみ》の刺青《ほりもの》もなしに放り出した。後悔をしても追附《おっつ》かない。で、弦光のひとり寝の、浴衣をかさねた木綿
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