…もう来たろう。
 お京の爪皮《つまかわ》が雪を噛《か》んで出た。まっすぐに清水《きよみず》下の道へは出ないで、横に池について、褄はするすると捌《さば》くが、足許の辿々《たどたど》しさ。

       十八

 寒い、めっきり寒い。……
 氷月と云う汁粉屋の裏垣根に近づいた時、……秋は七草で待遇《もてな》したろう、枯尾花に白い風が立って、雪が一捲《ひとま》き頭巾を吹きなぐると、紋の名入の緋葉《もみじ》がちらちらと空に舞った。お京の姿は、傘もたわわに降り積り、浅黄で描いた手弱女《たおやめ》の朧夜《おぼろよ》深き風情である。
「あら、月村さん。」
 紅入ゆうぜんの裳《すそ》も蹴開くばかり、包ましい腰の色気も投棄てに……風はその背後《うしろ》から煽《あお》っている……吹靡《ふきなび》く袖で抱込むように、前途《ゆくて》から飛着いた状《さま》なる女性《にょしょう》があった。
 濃緑《こみどり》の襟巻に頬を深く、書生羽織で、花月巻の房々したのに、頭巾は着ない。雪の傘《からかさ》の烈《はげ》しく両手に揺るるとともに、唇で息を切って、
「済みません、済みませんでした、お約束の時間におくれッちまいまして。」
「まあ、よくねえ。」
 と、此方《こなた》も息を吻《ほっ》としながら、
「これではどうせ――三浜《みはま》さん、来《い》らっしゃらないと思ったもんですから、参詣《おまいり》を先に済ませて、失礼でしたわ。」
「いいえ、いいえ。」
「何しろこの雪でしょう、それに私などと違って、あなたはお勤めがおありになりますから。」
「ところが、ですの。」
 とまた一息して、
「私の方こそ、あなたと違って、歩行《ある》くのも、動くのも、雨風だって、毎日体操同然なんでございますものね。」
 と云った。「教え子」と題した、境遇自叙の一篇が、もう世に出ていた。これも上杉先生の門下で。――思案入道殿の館《やかた》に近い処、富坂《とみざか》辺に家居《いえい》した、礫川《れきせん》小学校の訓導で、三浜|渚《なぎさ》女史である。年紀《とし》はお京より三つ四つ姉さんだし、勤務が勤務だし、世馴《よな》れて身の動作《こなし》も柔かく、内輪の裡《うち》にもおのずから世の中つい通り――ここは大衆としようか――大衆向の艶《つや》を含んで、胸も腰もふっくらしている。
「わけなし、疾《はや》くに支度をして、この日曜だというのに袴まで穿《は》きましたんです、風がありますからですが。この雪と来て、あなたは不断お弱いし……きっとお出掛けなさりはしないだろう、と一人で極《き》めて、その袴も除《の》けてさ、まあ。ご丁寧に、それで火鉢に噛《かじ》りついたんですけど……そうでもない、ほかの事とは違って、お参詣《まいり》をするのに、他所《よそ》の方が、こうだから、それだから、どうの、といっては勿体なし……一人ででも、と思いますと、さあ、あなたも同じ心でお出掛けになったかも分らない。――急に火鉢の火のつくように、飛上って、時間がおくれた、大変だ。お待合わせを約束の仲|町《ちょう》を出た、あの大時計が雪の塔、大吹雪の峠の下に、一人旅で消えそうに彳《た》っていらっしゃるのが目さきに隠現《ちらつ》くもんですから、一息に駆出すようにして来たんです。気ばかり急いで。」
 と、顔をひたと合わせそうに、傘《からかさ》を横に傾けたので、耳にまで飛ぶ雪を、鬢《びん》を振って、払い、はらい、
「この煙とも霧とも靄《もや》とも分らない卍巴《まんじともえ》の中に、ただ一人、薄《うっす》りとあなたのお姿を見ました時は、いきなり胸で引包《ひっつつ》んで、抱いてあげたいと思いましたよ。」
「抱かれたい、おほほ。」
 と口紅が小さく白く、雪に染まった。
「え?」
 ただの世辞ではなかったが、おもいがけないお京の返事が胸を衝《つ》いたから、ちょっと呆れて、ちょっと退《しさ》って、
「まあ、月村さん」
「おほほ、三浜さん」
「お元気、お元気……」

       十九

 渚も元気を増したらしい。
「ですが、顔の色がお悪いわ、少し蒼ざめて。……何しろ、ここへ入って休みましょう――ええ、私のお詣りはそれから、お精進だから構いません、お汁粉ですもの。家がまた氷月ですね。気のきかない、こんな時は、ストーブ軒か、炬燵亭《こたつてい》とでもすれば可《よ》ござんすのに。」
 その木戸口に、柳が一本《ひともと》、二人を蔽《おお》う被衣《かつぎ》のように。
「閉っていたって。」
 と、少し脊伸びの及腰《およびごし》に、
「この枝折戸《しおりど》の掛金は外ずしてありましょう。表へだと、大廻りですものね。さあ、いらっしゃい。まこと開かなけりゃ四目垣ぐらい、破るか、乗越《のっこ》すかしちまいますわ。抱かれてやろうといって下すった、あなたのためなら。……飛んだ門破
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