しごきで、頽然《たいぜん》としていた事になる。もっとも、おいらんの心中などを書く若造を対手《あいて》ゆえの、心易さの姐娘《あねご》の挙動《ふるまい》であったろうも知れぬ。
――「今日は珍らしいんです、いつも素見《ぞめき》大勢。山の方から下りていらっしゃる方、皆さん学者、詩人連でおいで遊ばすでしょう。英語はもとより、仏蘭西《フランス》をどうの、独乙《ドイツ》をこうの、伊太利《イタリー》語、……希臘《ギリシャ》拉甸《ラテン》……」――
と云って、にっこり笑ったそうである。
が、山から下りて来るという、この人々に対しては、(じれった結び)なぞ見せはしない、所帯ぎれのした昼夜帯も(お互に貧乏で、相向った糸七も足袋の裏が破れていた。)きちんと胸高なお太鼓に、一銭が紫粉《むらさきこ》で染返しの半襟も、りゅうと紗綾形《さやがた》見せたであろう、通力自在、姐娘の腕は立派である。
――それにつけても、お京さんは娘であった。雪の朝の不忍の天女|詣《もうで》は、可憐《いとし》く、可愛い。
十七
お京は下向《げこう》の、碧玳瑁《へきたいまい》、紅珊瑚《こうさんご》、粧門《しょうもん》の下《もと》で、ものを期したるごとくしばらく人待顔に彳《たたず》んだのは誰《た》がためだろう。――やがて頭巾《ずきん》を被《かぶ》った。またこれだけも一仕事で、口で啣《くわ》えても藤色|縮緬《ちりめん》を吹返すから、頤《おとがい》へ手繰って引結うのに、撓《しな》った片手は二の腕まで真白《まっしろ》に露呈《あらわ》で、あこがるる章魚《たこ》、太刀魚《たちのうお》、烏賊《いか》の類《たぐい》が吹雪の浪を泳ぎ寄りそうで、危っかしい趣さえ見えた。
――ついでに言おう。形容にもせよ、章魚、太刀魚はいかがだけれど、烏賊は事実居た……透かして見て広小路まで目は届かずとも、料理店、待合など、池の端《はた》あたりにはふらふらと泳いでいたろう――
その頃は外套《がいとう》の襟へ三角|形《なり》の羅紗《らしゃ》帽子を、こんな時に、いや、こんな時に限らない。すっぽりと被るのが、寒さを凌ぐより、半分は見得で、帽子の有無《ありなし》では約二割方、仕立上りの値が違う。ところで小座敷、勿論、晴れの席ではない、卓子台《ちゃぶだい》の前へ、右のその三角帽子、外套の態《なり》で着座して、左褄《ひだりづま》を折捌《おりさば》いたの、部屋着を開《はだ》けたのだのが、さしむかいで、盃洗が出るとなっては、そのままいきなり、泳いで宜《よろ》しい、それで寄鍋をつつくうちは、まだしも無鱗類の餌らしくて尋常だけれども、沸燗《にえがん》を、めらめらと燃やして玉子酒となる輩《ともがら》は、もう、妖怪に近かった。立てば槍《やり》烏賊、坐れば真《ま》烏賊、動く処は、あおり烏賊、と拍子にかかると、また似たものが外《ほか》にあった。
季節はそれるが、その形は、油蝉にも似たのである。
――月府玄蝉《げっぷげんせん》――上杉先生が、糸七同門の一人に戯《たわむれ》に名づけたので、いう心は月賦で拵《こしら》えた黒色外套の揶揄《やゆ》である。これが出来上った時、しかも玉虫色の皆絹裏《かいきうら》がサヤサヤと四辺《あたり》を払って、と、出立《いでた》った処は出来《でか》したが、懐中|空《むな》しゅうして行処《ゆくところ》がない。まさか、蕎麦屋《そばや》で、かけ一、御酒なしでも済まないので、苦心の結果、場末の浪花節を聞いたという。こんなのは月賦が必ず滞《たま》る。……洋服屋の宰取《さいとり》の、あのセルの前掛《まえかけ》で、頭の禿《は》げたのが、ぬかろうものか、春暖相催し申候や否や、結構なお外套、ほこり落しは今のうち、と引剥《ひきは》いで持って行《ゆ》くと、今度は蝉の方で、ジイジイ鳴噪《なきさわ》いでも黐棹《もちざお》の先へも掛けないで、けろりと返さぬのがおきまりであった。
――弁持《べんもち》十二――というのも居た。おなじ門葉《もんよう》の一人で、手弁で新聞社へ日勤する。月給十二円の洒落《しゃれ》、非ず真剣を、上杉先生が笑ったのである。
ここに――もう今頃は、仔細《しさい》あって、変な形でそこいらをのそついているだろう――辻町糸七の名は、そんな意味ではない。
上杉先生の台町とは、山……一つ二つあなたなる大塚辻町に自炊して、長屋が五十七番地、渠《かれ》自ら思いついた、辻町はまずいい、はじめは五十七、いそなの磯菜。
「ヘン笑かすぜ、」「にやけていやがる、」友達が熱笑冷罵する。そこで糸七としたのである。七夕の恋の意味もない。三味線《さみせん》の音色もない。
その糸七が、この大雪に、乗らない車坂あたりを段々に、どんな顔をしていよう。名を聞いただけでも空腹《すきばら》へキヤリと応える、雁鍋《がんなべ》の前あたりへ…
前へ
次へ
全38ページ中14ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング