《ろうそく》が灯を点じた。二つ三つまた五つ、灯《ほ》さきは白く立って、却って檐前《のきさき》を舞う雪の二片《ふたひら》三片《みひら》が、薄紅《うすくれない》の蝶に飜《ひるがえ》って、ほんのりと、娘の瞼《まぶた》を暖めるように見える。
「お蝋をあげましてござります。」
「は。」
 僧は中腰に会釈して、
「早朝より、ようお詣り……」
「はい。」
「寒じが強うござります、ちとおあがりになって、御休息遊ばせ。」
 この僧が碧牡丹《へきぼたん》の扉の蔭へかくれた時、朝詣《あさもうで》の娘は、我がために燈明の新しい光を見守った。
 われら、作者なかまの申合わせで、ここは……を入れる処であるが、これが、紅《べに》で印刷が出来ると面白い。もの言わず念願する、娘の唇の微《かすか》に動くように見えるから。黒|ゝゝ《ぼちぼち》では、睫毛《まつげ》の顫《ふる》える形にも見えない。見えても、ゝと短いようで悪いから、紙|費《ついえ》だけれど、「    」白にする。

       十六

 時に、伏拝むのに合せた袖口の、雪に未開紅の風情だったのを、ひらりと一咲き咲かせて立って、ちょっとおくれ毛を直した顔を見ると、これは月村一雪、――中洲のお京であった。
 実は――――
「……小説が上手に書けますように……」
 どうも可訝《おか》しい、絵が上手になりますように、踊が、浄瑠璃《じょうるり》が、裁縫《おしごと》が、だとよく解《きこ》えるけれども、小説は、他《ほか》に何とか祈念のしようがありそうに思われる。作者だってそう思う。人生の機微に針の尖《さき》で触れますように、真理を鋭刀《メス》で裂きますように、もう一息、世界の文豪を圧倒しますように……でないと、承知の出来ない方々が多いと思う。が、一雪のお京さんは確《たしか》に前条のごとくに祈念したのである。精確な処は、傍《かたえ》に真白《まっしろ》に立たせたまえる地蔵尊に、今からでも聞かるるが可《い》い。
 なお、かし本屋の店頭でもそうだし、ここでの紫の雨合羽に、塗《ぬり》の足駄など、どうも尋常《ただ》な娘で、小説家らしい処がない。断髪で、靴で、頬辺《ほおべ》が赤くないと、どうも……らしくない。が、硯友社《けんゆうしゃ》より、もっと前、上杉先生などよりなお先に、一輪、大きく咲いたという花形の曙《あけぼの》女史と聞えたは、浅草の牛肉屋の娘で――御新客《ごしんき》、鍋《なべ》で御酒《ごしゅ》――帳場ばかりか、立込むと出番をする。緋鹿子《ひがのこ》の襷掛《たすきが》けで、二の腕まで露呈《あらわ》に白い、いささかも黒人《くろうと》らしくなかったと聞いている。
 また……ああ惜しいかな、前記の閨秀《けいしゅう》小説が出て世評一代を風靡《ふうび》した、その年の末。秋あわれに、残ンの葉の、胸の病《やまい》の紅《あか》い小枝に縋《すが》ったのが、凧《こがらし》に儚《はかな》く散った、一葉女史は、いつも小机に衣紋《えもん》正しく筆を取り、端然として文章を綴ったように、誰も知りまた想うのである。が、どういたして……
 ――やがてこのあとへ顔を出す――辻町糸七が、その想う盾の裏を見せられて面食《めんくら》った。糸七は、一雑誌の編輯にゆかりがあって、その用で、本郷丸山町、その路次が、(あしき隣もよしや世の中)と昂然《こうぜん》として女史が住んだ、あしき隣の岡場所で。……
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――おい、木村さん、信さん寄っておいでよ、お寄りといったら寄っても宜《い》いではないか、また素通りで二葉屋へ行く気だろう――
[#ここで字下げ終わり]
にはじまって、――ある雨の日のつれづれに表《おもて》を通る山高帽子の三十男、あれなりと取らずんば――と二十三の女にして、読書界に舌を巻かせた、あの、すなわちその、怪しからん……しかも梅雨時、陰惨としていた。低い格子戸を音訪《おとず》れると、見通しの狭い廊下で、本郷の高台の崖下だから薄暗い。部屋が両方にある、茶の間かと思う左の一層暗い中から、ひたひたと素足で、銀杏返《いちょうがえし》のほつれながら、きりりとした蒼白《あおじろ》い顔を見せた、が、少し前屈《まえかが》みになった両手で、黒繻子《くろじゅす》と何か腹合せの帯の端を、ぐい、と取って、腰を斜めに、しめかけのまま框《かまち》へ出た。さて、しゃんと緊《しま》ったところが、(引掛《ひっか》け、)また、(じれった結び)、腰の下緊《したじめ》へずれ下った、一名(まおとこ結び)というやつ、むすび方の称《とな》えを聞いただけでも、いまでは町内で棄て置くまい。差配が立処《たちどころ》に店《たな》だてを啖《く》わせよう。
 ――「失礼な、うまいなり、いいえね、余りくさくさするもんですから、湯呑で一杯……てったところ……黙ってて頂戴。」――
 端正どころか、これだと、
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