。糸七も潔く受けました。あなたも、一つ。」
 弱い酒を、一時に、頭上《のぼ》った酔に、何をいうやら。しかもひたりと坐直《いなお》って、杯を、目ざすお京の姿に献《さ》そうとして置くのが、畳も縁《へり》も、炉縁も外れて、ずか、と灰の中へ突込もうとして、衝《つ》と手を引いて、ぎょっとしたように四辺《あたり》を視た。
「どうかしている。」
 第一に南瓜畠が暗かった。数千の葉が庭ぐるみ皆|戦《そよ》いだ。颶風《はやて》落来《おちく》と目がくらみ、頭髪《ずはつ》が乱れた。
 その時、遣場《やりば》に失した杯は思わず頭の真中《まんなか》へ載せたそうである。
 一よろけ、ひょろりとして、
「――一段と烏帽子が似合いて候――」
 とすっくり立った。
 が、これは雪の朝、吉原を落武者の困惑を繰返したものではない。一人の友達の、かつて、深山越《みやまごし》の峠の茶屋で、凄《すさま》じき迅雷《じんらい》猛雨に逢って、遁《に》げも、引きも、ほとんど詮術《せんすべ》のなさに、飲みかけていた硝子盃《コップ》を電力遮断の悲哀なる焦慮で、天窓《あたま》に被《かぶ》ったというのを、改めて思出すともなく、無意識か、はた、意識してか、知らず、しかくあらしめたものである。
 青麟に嫁《ゆ》く一言《ひとこと》や、直ちに霹靂《へきれき》であった。あたかもこの時の糸七に、屋の内八方、耳も目も、さながら大雷大風であった。

       四十一

 と、突立《つッた》ったまま、苦《にが》い顔、渋い顔、切ない顔、甘い顔、酔って呆《ぼ》けた青い顔をしていた。が、頬へたらたらと垂れかかった酒の雫《しずく》を、横舐《よこな》めに、舌打して、
「鳴るは滝の水、と来るか、来たと……何だ、日は照るとも絶えずとうたりか、絶えずとうたりと、絶えずとうたり、とくとく立てや手束弓《たつかゆみ》の。」
 真似を動いて、くるくる舞ったが、打傾いて耳を聳《そばだ》て、
「や、囃子《はやし》が聞える。ええ、横笛が。笛は止せ、笛は止せ、止せ、止さないか、畜生。」
 と、いうとともに、胆略も武勇もない、判官《ほうがん》ならぬ足弱の下強力《したごうりき》の、ただその金剛杖《こんごうづえ》の一棒をくらったごとく、ぐたりとなって、畳にのめった。
 がんがんがんと、胸は早鐘、幽《かすか》にチチと耳が鳴る。
 仏間にては、祖母が、さっきの言《こと》を真《ま》に受けて、りんなど打っていられはしないか。この秋の取ッつきに、雷雨おびただしかりし中に、ピシャン、と物凄く響いたのを、昼寝の目を柔かに孫を視て、「軒近に桶屋が来ているかの、竹の箍《たが》が弾《はじ》いたようじゃ。」と、またうとうとと寝《ねむ》ったほど、仏になってござるから、お京が今し帰った時の俥の音など、沙汰なしで、ご存じないが。
「祖母《おばあ》さん……」
 なき父、なき母。
「私は決してお京さんに。……ただただ、青大将の女房にはしたくないんです。」
 と、きちんと両手をついたかと思えば、すぐに引※[#「てへん+毟」、第4水準2−78−12]《ひきむし》りそうな手を、そのまま宙に振って、また飛上って、河童《かっぱ》に被《かぶ》った杯をたたいた。
「でんでん虫、虫。雨も風も吹かンのんに、でんでん虫、虫……」
 と、狂言舞に、無性|矢鱈《やたら》に刎歩行《はねある》く。
 のそのそ、のそのそ、一面の南瓜の蔭から這出《はいだ》したものは蝦蟇《がま》である。とにかく、地借《ちがり》の輩《やから》だし、妻なしが、友だち附合の義理もあり、かたがた、埴生《はにゅう》の小屋の貧旦那《ひんだんな》が、今の若さに気が違ったのじゃあるまいか。狂い方も、蛞蝓《なめくじ》だとペロリと呑みたくなって危いが、蝸牛《でんでんむし》なら仔細《しさい》あるまい、見舞おうと、おのおの鹿爪らしく憂慮気《きづかわしげ》に、中には――時々の事――縁へ這上ったのもあって、まじまじと見て面《つら》を並べている。
 ここに不思議な事は、結びも、留めもしない、朱塗の梅の杯が気狂舞《きちがいまい》に跳ねても飛んでも、辷《すべ》らず、転らず、頭から落ちようとしないので。……ふと心附いて、蟇《ひき》のごとく跼《しゃが》んで、手もて取って引く、女の黒髪が一筋、糸底を巻いて、耳から額へ細《ほっそ》りと、頬にさえ掛《かか》っている。
 猛然として、藍染川、忍川、不忍の池の雪を思出すと、思わず震える指で、毛筋を引けば、手繰れば、扱《しご》けば、するすると伸び、伸びつつ、長く美しく、黒く艶やかに、芬《ぷん》と薫って、手繰り集めた杯の裡《うち》が、光るばかりに漆を刷《は》く。と見ると、毛先がおのずから動いて、杯の縁を刎《は》ね、灰に染めじ、と思う糸七の袖に弛《ゆる》く掛《かか》りながら、すらすらと濡縁へ靡《なび》いたのである。
 こ
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