「三度、三度、ここに居まして、ご飯のかわりに頂いたら、どんなにか嬉しいでしょう……」
と、息をふくんだ頬を削って、ツと湧《わ》く涙に袖を当てると、いう事も、する事も、訳は知らず誘われて、糸七も身を絞ってほろほろと出る涙を、引振《ひっぷる》うように炉に目を外《そ》らした。
「喧嘩せまい、喧嘩せまい。何じゃ、この、孫めがまた……」
「――お祖母さん、芝居の話をしていたんです、それが悲しいもんですから。」
「それは、それは……嫁ごもの、芝居が何より好きでござったよ。たんと、ゆっくり話さっしゃい。……ほんにの、お蒲団もない。道中にも、寝床にも被《かぶ》るのなれど、よう払うてなと進ぜましょう。」
祖母の立ったのを見ると斉《ひと》しく、糸七はぴったり手をついた。
「祖母《としより》の失言をあやまります。」
「勿体ない。私は嬉しゅう存じました。」
と膝を退《しさ》って、礼を返して、
「辻町さん、では、失礼をいたします。」
何しに来たこの女、何を泣いたこの女、なぜ泣かせたこの女、椎と青紫蘇の葉に懲りて、破毛布《やぶれげっと》に辟易《へきえき》したろう。
黙って、糸七が挨拶すると、悄然《しょんぼり》と立った、が屹《きっ》と胸を緊《し》めた。その姿に似ず、ゆるく、色めかしく、柔かな、背負《しょい》あげの紗綾形絞《さやがたしぼ》りの淡紅色《ときいろ》が、ものの打解けたようで可懐《なつか》しい。
框《かまち》の障子を、膝をついて開けると、板に置いた、つつみものを手に引きつけて、居直る時、心|急《せ》いた状《さま》に前褄が浅く揺れて、帯の模様の緋葉《もみじ》が散った。
「お恥しいもんです。小さな盃は、内に久しくありました。それに、お酒をお一口。」
四十
「…………」
「私……しばらくお別れに来たんです。」
「……旅行――遠方へ。」
「いいえ。」
糸七は釈然として、胸で解けた。
「ああ、極りましたか、矢野とお約束。」
眉が一文字に、屹《きっ》と視《み》て、
「あの方、お断りしてしまいました、他所《よそ》へ嫁に参ります。」
「他所へ。……おきき申すのも変ですが。」
お京は引結んだ口元をやっと解いたように見えて、
「野土青麟の許《とこ》へです。」
糸七は聞くより思わず戦《わなな》いた。あの青大将が、横笛を、臭《いき》を浴びても頬が腐る、黒い舌に――この帯を、背負揚《しょいあげ》を、襟を、島田を、緋《ひ》の張襦袢《ながじゅばん》を、肌を。
「あなたが、あなたが、私を――矢野さんにお媒妁《なこうど》なすった事を聞きました口惜《くや》しさに――女は、何をするか私にも分りません――あなたが世の中で一番お嫌いだという青麟に、結納を済ませたんです。」
「…………」
「辻町さん、よく存じております、知っていたんです。お嫌いなさいますのも、お憎しみも分っています。いますけれど、思う方、慕う方が、その女を余所《よそ》へ媒妁なさると聞いた時の、その女の心は、気が違うよりほかありません。」
と蒼《あお》い顔で、また熟《じっ》と視て、はっと泣きつつ、背けた背を、そのまま、土間へ早や片褄。その褄を圧《おさ》えても、帯をひしと掴《つか》んでも、搦《から》まる緋が炎でも、その中の雪の手首を衝《つ》と取っても、世にげに一度は許されよう、引戻そうと、我を忘れて衝と進んだ。
「危え、危え、ええ危えというに、やい、小阿魔女《こあまっちょ》め。」
「何を小癪《こしゃく》な……チンツン」
と、目をぱっちり、ちょっと、一見得。
黒鴨《くろがも》の俥夫《しゃふ》が、後《うしろ》から、横から、飛廻って、喚《わめ》くを構わず、
「チンツン、さすがの勇者もたじたじたじ、チチレ、トツツル、ツンツ、ツンツ、こずえ木の葉のさらさらさら、チャン、チャン、チャンチャンラン、チャンラン、魔風とともに光邦が、襟がみつかんで……おほほ、ははは、ちゃっちゃっ、ちゃっ。」
お京の姿を、框に覗くと、帰る、と見た、おしゃまの、お先走りのお茶っぴいが、木戸|傍《わき》で待った俥の楫棒《かじぼう》を自分で上げて右左へ振りながら駆込んで来たのである。
「わかれに、……その気でいたかも知れない。」
小杯は朱塗のちょっと受口で、香炉形とも言いそうな、内側に銀の梅の蒔絵《まきえ》が薫る。……薫るのなんぞ何のその、酒の冷《ひや》の気を浴びて、正宗を、壜《びん》の口の切味《きれあじ》や、錵《にえ》も匂も金色《こんじき》に、梅を、朧《おぼろ》に湛《たた》えつつ、ぐいと飲み、ぐいと煽《あお》った――立続けた。
吻《ほっ》と吹く酒の香を、横|状《ざま》に反《そ》らしたのは、目前《めさき》に歴々《ありあり》とするお京の向合《むきあ》った面影に、心遣いをしたのである。
杯を持直して、
「別れだといいました
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