青いんだの、黄色いんだの、子供の狐の面を五つ見た時は、欄干越《てすりごし》に廂《ひさし》へ下った女の扱帯《しごき》が、真赤《まっか》な尻尾に見えたんです。
その女が、これも化けた一つの欺《て》で、俥《くるま》まで拵《こしら》えて、無事に帰してくれたんです。が、こちらが身震《みぶるい》をするにつけて、立替《たてかえ》の催促が烈《はげ》しく来ます。金子《かね》は為替《かわせ》で無理算段で返しましたが、はじめての客に帰りの俥まで達引《たてひ》いた以上、情夫《まぶ》――情夫(苦い顔して)が一度きり鼬《いたち》の道では、帳場はじめ、朋輩へ顔が立たぬ、今日来い、明日来い、それこそ日ぶみ、矢ぶみで。――もうこの頃では、押掛ける、引摺りに行く、連れて帰る、と決闘状《はたしじょう》。それが可恐《おそろし》さに、「女が来たら、俥が見えたら、」と、お滝といいます……あのお茶っぴいに、見張を頼んで、まさか、女郎、とはいえませんから、そこは附景気に、「嫁が来るんだ。遠くからでも見えたら頼むよ。」合点ものです。そいつが、今です、前刻《さっき》ですよ。そこから覗いて、「来たよ、花嫁。」……
一言で面くらって、あなたのお顔も、姿も見ないで、跣足《はだし》で庭へ逃出した始末です。断じて、決して、あなたと知って逃げたのではありません。」
しまった! 大家が家賃の催促でも済んだものを、馬鹿の智慧は後からで、お京のとりなしの純真さに、つい、事実をあからさまに、達引だの、いや矢ぶみだの、あさましく聞きはしないか、と、舌がたちまち縮んで咽喉《のど》へ声の詰る処へ。
「光邦様。」
日ぶみ矢ぶみの色男の汗を流した顔を見よ。いまうわさしたその窓から、お滝の蝶々髷が、こん度は羽目板の壊れを踏んで上ったらしい。口まで出た。
「お客様の、ご馳走は。……つかいに行って上げるわよ。」
また、冷汗だ、銭がない。
三十九
「これは、これは、おうようこそや。……今の、上《あが》り端《ばな》を覗いたら、見事な駒下駄《かっこ》があったでの。」
ちと以前より、ごそごそと、台所で、土瓶、炭、火箸、七輪。もの音がしていたが、すぐその一枚の扉《ひらき》から、七十八の祖母が、茶盆に何か載せて出た。
これにお京のお諸礼式は、長屋に過ぎて、瞠目《どうもく》に価値《あたい》した。
「あの、お祖母様《ばあさま》……お祖母様。」
二声目に、やっと聞えて、
「はい、はい。」
「辻町さんに……」
「…………」
「糸七さんに……」
肩身を狭く、ちょっと留めて、
「そんな事いったって、分りませんよ。」
「……お孫さんに。……」
「はい。」
「いろいろとお世話になります。」
「……孫めは幸福《しあわせ》、お綺麗なお客様で、ばばが目にも枯樹に花じゃ。ほんにこの孫《こ》の母親、わしには嫁ごじゃ。江戸から持ってござっての、大事にさしゃった錦絵にそのままじゃ。後の節句にも、お雛様《ひなさま》に進ぜさした、振出しの、有平《あるへい》、金米糖でさえ、その可愛らしいお口よごしじゃろうに、山家《やまが》在所の椎《しい》の実一つ、こんなもの。」
と、へぎ盆も有合さず、菜漬づかいの、小皿をそこへ、二人分。糸七は俯向《うつむ》いた。一雪《きみ》よ、聞け。山果庭ニ落チテ、朝三《チョウサン》ノ食|秋風《シュウフウ》ニ※[#「厭/(餮−殄)」、第4水準2−92−73]《ア》クとは申せども、この椎の実とやがて栗は、その椎の木も、栗の木も、背戸の奥深く真暗《まっくら》な大藪《おおやぶ》の多数の蛇《くちなわ》と、南瓜畑の夥多《おびただ》しい蝦蟇《がま》と、相戦う衝《しょう》に当る、地境の悪所にあって、お滝の夜叉さえ辟易《へきえき》する。……小雀《こがら》頬白《ほおじろ》も手にとまる、仏づくった、祖母でなくては拾われぬ。
「それからの、青紫蘇《あおじそ》を粉にしたのじゃがの、毒にはならぬで、まいれ。」
と湯気の立つ茶椀。――南無三宝、茶が切れた。
「ほんにの、これが春で、餅草があると、私が手に、すぐに団子なと拵えて進じょうもの。孫が、ほっておきで、南瓜の葉ばかり何にもないがの。」
と寂しい笑いの、口には歯がない。
お京がいとしげに打傾き、
「お祖母様、いまに可愛い嫁菜が咲きます。」
「嫁菜がの、嬉しやの、あなたのような、のう。」
糸七は仰天した、人参のごとく真《しん》まで染《そま》って、
「お祖母さん、お祖母さん、お祖母さん、そんな事より、仏間へ行って、この、きれいな、珍らしいお客様の見えた事を、父、母に話して下さい。」
「おいの、そうじゃの。」
何と思ったか、お京が急いで、さも、遠慮のないように椎の実を取った。
「お祖母様。」
「……おお、食べてくださるかの。」
「おいしい……」
と、長いまつ毛をふるわせて、
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