った。その立つ灰にも、留南木《とめぎ》の香が芬《ぷん》と薫る。
 覚えず、恍惚《うっとり》する、鼻の尖《さき》へ、炎が立って、自分で摺《す》った燐寸《マッチ》にぎょっとした。が、しゃにむに一服まず吸って、はじめて、一息|吻《ほつ》とした。
「月村さん、あなたを見て、花嫁、いや、待って下さい。言うのも憚《はばか》りますが、その花嫁のわけなんです。――実は、今更何とも面目次第もありません、跣足《はだし》で庭へ遁《に》げましたのも、盟《ちか》って言います。あなたのお姿を見てからではないのです。……
 ……聞いたばかり、聞いたばかりで腰も抜かさないのは、まだしもの僥倖《しあわせ》で飛出したんです。今しがた、あなたが、大方、この長屋の総木戸をお入んなすった時でしょう。その頃です、唯今のお茶っぴいが、その窓から頭を出して、「花嫁が来た。」と言ったんです。――来たらば知らしておくれよ、と不断、お茶っぴいを斥候《ものみ》同然だったものですから、聞くか聞かないに、何とも、不状《ぶざま》を演じました。……いま、そのわけを話しますが。……
 ……煙草は……それはありがたい、お嫌《きらい》でも、お友だちがいに、すぱすぱ。」
 と妙に砕けて、変に勢《きお》って、しょげて、笑って、すぱすぱ。

       三十八

「……また何も、ここへ友達を引張《ひっぱ》り出して、それに託《かず》けるのは卑怯《ひきょう》ですが、二月ばかり前でした。あなたなぞの前では、お話もいかがわしい悪場所の、それも獣の巣のような処へ引掛《ひっかか》ったんです。泥々に酔って二階へ押上って、つい蹌踉《よろ》けなりに梯子段《はしごだん》の欄干へつかまると、ぐらぐらします。屋台根こそぎ波を打って、下土間へ真逆《まっさか》に落ちようとしました……と云った楼《うち》で。……障子の小間《こま》は残らず穴ばかり。――その一つ一つから化ものが覗いて、蛞蝓《なめくじ》の舌を出しそうな様子ですが、ふるえるほど寒くはありませんから、まず可《い》いとして、その隅っ子の柱に凭掛《よりかか》って、遣手《やりて》という三途河《さんずがわ》の婆さんが、蒼黒《あおぐろ》い、痩《や》せた脚を突出してましてね。」
 ……褌《ふんどし》というのを……控えたらしい。
「舐《な》めちゃ取り、舐めちゃ取り、蚤《のみ》だか、虱《しらみ》だか捻《ひね》っています。――あなたも、こんな、私のようなものの処へおいで下すった因果に、何事も忘れてお聞き下さい。
 その蚤だか虱だかを捻る片手間に、部屋から下ったという蕎麦の残り、伸びて、蚯蚓《みみず》のようにのたくるのを撮《つま》んじゃ食い、撮んじゃ食う。そこをまた、牙と舌を剥出《むきだ》して、犬ですね、狆《ちん》か面《つら》の長い洋犬などならまだしも、尻尾を捲上《まきあ》げて、耳の押立《おった》った、痩せて赤剥《あかはげ》だらけなのが喘《あえ》ぎながら掻食《かっくら》う、と云っただけでも浅ましさが――ああ、そうだ。」
 糸七は煙管を落した。
「あなたの吉原の随筆は、たしか、題は『あさましきもの。』でしたね。私が飛んだ『べッかッこ』をした。」
「もう、どうぞ。」
 お京は膝に袖を千鳥に掛けたまま、雌浪《めなみ》を柔《やわらか》に肩に打たせた。
「大目玉を頂きましたよ、先生に。」
「もうどうぞ、ご堪忍。」
「いや、お詫びは私こそ、いわばやっぱりあなたの罰です。その「浅ましい」一つの穴で……部屋は真暗《まっくら》、がたがた廊下の曲角に、洋鉄《ブリキ》の洋燈《ランプ》一つ。余り情《なさけ》ない、「あかりが欲《ほし》い。」……「蝋燭代を別に出せ。」で、奈落に落ちて一夜あける、と勘定は一度済ましたんですが、茶を一杯にも附足しの再勘定、その勘定書を、その勘定を催促しても、わざと待たして持って来ません。これが、ぼると言います。阿漕《あこぎ》な術《やつ》です。はめられたんです。といううちに、朝直し……遊蕩《あそび》が二度|振《ぶり》になって、また、前勘定、このつけを出されると、金が足りない、足りないどころですか、まるで始末が出来ないのです。
 ――「あさましきもの」が引受けてくれました、暑いのに、破屏風《やぶれびょうぶ》にすくんで、かびた蒲団に縮まったありさまは、人間に、そのまま草が生えそうです。無面目《むめんぼく》で廊下へ顔も出せません。お螻《けら》の兄さん、ちと、ご運動とか云って、「あさましきもの」に廊下へ連出されると、トトトン、トトトンと太鼓の音。それを、欄干《てすり》から覗《のぞ》きますとね、漬物|桶《おけ》、炭俵と並んで、小さな堂があって、子供が四五人――午《うま》の日でした。お稲荷講、万年講、お稲荷さんのお初穂《はつ》。「お初穂よ、」といって、女がお捻《ひねり》を下へ投げると、揃って上を向いた。
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