いようはありません、失礼しました。」
お京は薄い桔梗色《ききょういろ》の襟を深く、俯向《うつむ》いて、片手で胸をおさえて黙っていたが、島田を簪《かんざし》で畳の上へ縫ったように手をついた。
「辻町さん……私を折檻《せっかん》して、折檻して下さいまし。折檻して下さいまし。」
「何、折檻。」
「ええ。」
「折檻、あなたはおよそ折檻ということを、知っていますか。あなたの身で、そのおからだで折檻という言葉をさえ知っていますか、本では読み話では聞いて、それは知っていらっしゃるかも知れませんが、何をいうんです。」
――一昨年《おととし》か、一昨々年《さきおととし》、この人の筆に、かくもの優しい、たおやかな娘に、蝦蟇《がま》の面《つら》の「べっかっこ。」、それも一つの折檻か、知らず、悪たれ小僧の礫《つぶて》をぶつけた――悪戯《いたずら》を。
糸七はすくむよりも、恐れるよりも、ただ、悄然《しょうぜん》とするのであった。
三十七
上げた顔は、血が澄んで、色の白さも透通る……お京は片袖を膝の上に、
「何よりか、あの、何より先に、申訳がありません。あなたのお内へお許しも受けないで、お言葉も受けないで、勝手に上って来たんですもの。」
「そんな、そんな事、何、こんな内、上るにも、踏むにも、ごらんの通り、西瓜《すいか》の番小屋でもありゃしません、南瓜畑の物置です。」
「いいえ、いいえ、私だって、幾度も、お玄関で。」
「あやまります、恐入ります。お玄関は弱り果てます。」
「おうかがいはしたんですけれど、しんとして、誰方《どなた》のお声も聞えません。」
「すぐ開き扉《ど》一つの内に、祖母《としより》が居ますが、耳が遠い。」
「あれ、お祖母様《ばあさま》にも失礼な、どうしたら可《い》いでしょう。……それに、御近所の方、おかみさんたちが多勢、井戸端にも、格子外にも、勝手口にも、そうしてあの、花嫁、花嫁。……」
「今も居ます。現に居ます、ごめんなさい。談じます。談判します、打《ぶん》なぐります、花嫁だなんて失礼な。」
「あれ、あなた、そんな気ではありません。極《きま》りが悪くて、極りが悪くて、外へ出られないもんですから、お内へ入ってかくれました。それだし、ただ、人の口の端《は》の串戯《じょうだん》だけでも、嫁だなぞと、あなたのお耳へ入ったらどうしようと、私……私を見て、庭へ出ておしまいなさいますし、私、死にたくなりました。」
と、片袖で顔をかくすと、姿も、消入る風情である。
「それが、それがです、それにわけがあるんです。何しろ、あなたを見てからではありません、見ない前に飛出したんです、――今申訳をします。待って下さい。どうも、何しろ、周囲《まわり》が煩《うるさ》い。」
軸物《かけもの》も、何もない、がらん堂の一つ道具に、机わきの柱にかけた、真田が短銃《たんづつ》の両提《ふたつさげ》。
鉄の煙管《きせる》はいつも座右に、いまも持って、巻莨《まきたばこ》の空缶《あきかん》の粉煙草を捻《ひね》りながら、余りの事に、まだ喫《の》む隙《すき》を見出さなかった、その煙管を片手に急いで立って、机の前の肱掛窓《ひじかけまど》の障子を開けると、植木屋の竹垣つづきで、細い処を、葎《むぐら》くぐりに人は通う。
「――夜叉|的《こう》、夜叉|的《こう》。」
声の下に、鼻の上まで窓の外へ、二ツ目が出た。
「光邦様、何。」
ひやりと、また汗になりながら、
「媽々《かかあ》連を追払《おっぱら》ってくれ、消してくれよ、妖術、魔術で。」
黙って瞬《まばたき》でうなずいた目が消えると、たちまち井戸端へ飛んだと思う、総長屋の桝形形《ますがたなり》の空地へ水輪なりにキャキャと声が響いた。
「放れ馬だよ、そら前町を、放れ馬だよ、五匹だ。放れ馬だよッ。」
跫音《あしおと》が、ばたばたばた、そんなにも居たかと思う。表通の出入口へ、どっと潮のように馳《はし》り退《の》いて、居まわりがひっそりする、と、秋空が晴れて、部屋まで青い。
畳の埃も澄んだようで、炉の灰の急な白さ。背きがち、首《うな》だれがちに差向ったより炉の灰にうつくしい面影が立って、その淡《うす》い桔梗の無地の半襟、お納戸|縦縞《たてじま》の袷《あわせ》の薄色なのに、黒繻珍《くろしゅちん》に朱、藍《あい》、群青《ぐんじょう》、白群《びゃくぐん》で、光琳《こうりん》模様に錦葉《もみじ》を織った。中にも真紅に燃ゆる葉は、火よりも鮮明《あざやか》に、ちらちらと、揺れつつ灰に描かるる。
それを汚すようだから、雁首で吹溜めの吸殻を隅の方へ掻こうとすると、頑固な鉄が、脇明《わきあけ》の板じめ縮緬《ちりめん》、緋《ひ》の長襦袢《ながじゅばん》に危く触ろうとするから、吃驚《びっくり》して引込《ひっこ》める時、引っかけて灰が立
前へ
次へ
全38ページ中33ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
泉 鏡花 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング