をした。あまつさえ、光邦様。……
 五目の師匠も近所なり、近い頃氷川様の祭礼《おまつり》に、踊屋台の、まさかどに、附きっきりで居てから以来、自から任じて、滝夜叉《たきやしゃ》だから扱いにくい。
「チチーン、シャン、チチチ、チチチン。(鼓の口真似)ポン、ポン、大宅《おおや》の太郎は目をさまし……ぼんやりしないでさ。」
「馬鹿、雑巾がないじゃないか。」
「まあ、この私とした事が、ほんにそうでござんした、おほほ。」
 ちゃッちゃッ、と笑いながら、お滝が木戸をポイと出る。糸七の気早く足へ掛けたバケツの水は、南瓜にしぶいて、ばちゃばちゃ鳴るのに、障子一重、そこのお京は、気息《けはい》もしない。はじめからの様子も変だし、消えたのではないか、と足首から背筋が冷い。
 衣《きぬ》の薫が、ほんのりと、お京がすッとそこへ出た。

       三十六

 慌てて、
「唯今《ただいま》、御挨拶。」
 これには、ただ身の動作《こなし》で、返事して、
「おつかいなさいましな。」
 と、すぐに糸七が腰かけた縁端《えんばな》へ、袖摺れに、色香折敷く屈《かが》み腰で、手に水色の半※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]《ハンケチ》を。
「私が、あの……」
 と、その半※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]を足へ寄せる。
 呆気《あっけ》に取られる。
「ね。」
「よして、よして下さい。罰が、罰が当る。」
「罰の当りますのは私の方です、私の方です。」
 切《せま》った声して、
「――牛込の料理屋へ、跣足《はだし》で雨の中をおいでなさいました。あの時にも、おみあしを洗って上げたかったんです。」
「何の事です、あれは先生の用で駆けつけたんです。」
「でも、それだって。」
「不可《いけな》い不可い、不可《いけ》ません。あなたの罰はともかくも、御両親の罰が当る――第一何の洒落《しゃれ》です。」
「洒落……」
 と引息に声が掠《かす》れて、志を払退《はらいの》けられたように、ひぞりもし拗《す》ねた状《さま》に、身を起してお京が立った。
 そこへ、お滝が飛込んで――
「あい、雑巾。あら、あら、二人とも気取ってる。バケツが引っくり返ってるじゃないの――テン、チン、嵯峨《さが》やおむろの花ざかり、浮気な蝶も色かせぐ、廓《くるわ》のものにつれられて、外めずらしき嵐山、ソレ覚えてか、きみさまの、袴も春の朧染《おぼろぞめ》、おぼろげならぬ殿ぶりを、見初《みそ》めて、そめて、恥かしの、森の下露、思いは胸に、」
 と早饒舌《はやしゃべ》りの一息にやってのけ、
「わあい……光邦、妖術にかかって、宙に釣られて、ふらふらしてるよ。」
 背中にひったり、うしろ姿でお京が立ったのを、弱った糸七は沓脱《くつぬぎ》がないから、拭いた足を、成程釣られながら、密《そっ》と振向いて見ると、愁《うれい》を瞼《まぶた》に含めて遣瀬《やるせ》なさそうに、持ち忘れたもののような半※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]《ハンケチ》が、宙に薄青く、白昼《まひる》の燐火《おにび》のように見えて、寂しさの上に凄《すご》いのに、すぐ目を反らして首垂《うなだ》れた。
 お滝が、ひょいと、飛んで傍《そば》へ来て、
「きれいなお姉ちゃん、少しお動きよ。」
「はい、動きましょう。」
 と、縁をうつくしい褄捌《つまさば》き、袖の動きに半※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]を持添えて、お滝の掌《てのひら》へ、ひしと当てた。
「これ、雑巾のおうつりです。」
「あら、あら、私に。」
「でも新しいんですから。」
 お滝は受けた半※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]を、前髪に当て、額に当て、頬に当て、頬摺《ほおずり》して、肩へかけ、胸に抱《いだ》いた、その胸ではらりと拡げ、小腕を張って、目を輝かして身を反らし、
「さてこそさてこそ、この旗を所持なすからは、問うに及ばず、将門《まさかど》が忘れがたみ、滝夜叉姫であろうがな。」
「何だ、あべこべじゃないか、違ってら。」
「チエエ、残念や、口おしや、かくなるうえは何をかつつまん、まこと我こそ――滝夜叉なるわ。どろんどろん、」
 と、あとしざりに、
「……帯だって出来るわ、この半※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]。嬉しい! 花嫁さん、ありがとう、お楽しみ光邦様、どろんどろん。」
 木戸も閉めないで、トンと行《ゆ》く。
「――何とも、かとも、言いようはありません。」
 すぐにお京を招じ入れた、というよりも、お京はひとりでに、ものあって誘うように、いま居た四畳半の縁の障子と、格子戸見通しの四畳を隔てた破襖《やれぶすま》の角柱で相合うその片隅に身を置いたし、糸七は窓下の机の、此方《こなた》へ、炉を前にすると同時に、いきなり頭《こうべ》を下げて、せき込んで言ったのである。
「何とも、かとも、い
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