の前の大川の浪に皆流れた。成程、夕顔の浴衣を着た、白い顔の眉の上を、すぐに、すらすらと帆が通る……と見ただけでも、他事《よそ》ながら、簇《しんし》、荷高似内のする事に、挙動《ふるまい》の似たのが、気|咎《とが》めして、浅間しく恥しく、我身を馬鹿と罵《ののし》って、何も知らないお京の待遇《もてなし》を水にした。アイスクリームか、ぶっかきか、よくも見ないで、すたすた、どかどか、がらん、うしろを見られる極りの悪さに、とッつき玄関の植込の敷石に蹴躓《けつまず》いて、ひょろ、ひょろ。……
「何のざまだ。」
 心の裡《うち》で呟《つぶや》いた……
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糸七は蟇と踞み。
南瓜の葉蔭に……
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       三十五

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尾花を透かして、
蜻蛉の目で。
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 内へ帰れば借金取、そこら一面八方|塞《ふさが》り、不義理だらけで、友達も好《い》い顔せず、渡って行《ゆ》きたい洲崎へも首尾成らず……と新大橋の真中《まんなか》に、ひょろ、ひょろのままで欄干に縋《すが》って立つと、魂が中ぶらり、心得違いの気の入れどころが顛倒《ひっくりかえ》っていたのであるから、手玉に取って、月村に空へ投出されたように思った。一雪め、小説なぞ書かなければ、雑誌編輯の用だと云って、こんな使いはしまいものを、お京め。と、隅田の川波、渺々《びょうびょう》たるに、網の大きく水脚を引いたような、斜向うの岸に、月村のそれらしい、青簾《あおすだれ》のかかった、中二階――隣に桟橋を張出した料理店か待合の庭の植込が深いから、西日を除けて日蔭の早い、その窓下の石垣を蔽《おお》うて、もう夕顔がほの白い……
 ……時であった。簾が巻き消えに、上へ揚ると、その雪白の花が、一羽、翡翠《ひすい》を銜《くわ》えた。いや、お京の口元に含んだ浅黄の団扇が一枚。大潮を真南《まんみなみ》に上げ颯《さっ》と吹く風とともに、その団扇がハッと落ちて、宙に涼しい昼の月影のようにひらひらと飜《ひるがえ》ると見るうちに、水面へスッと流れて、水よりも青くすらすらと橋へ寄った。その時|悚然《ぞっ》として、目を閉《ふさ》いで俯向《うつむ》いた――挨拶《おじぎ》をしたかも知れない。――
 さて何と思ったろう……その晩だったか、あと二三日おいてだったか、東雲《しののめ》の朝帰りに、思わず聞いた、「こんな身体《からだ》で、墓詣りをしてもいいだろうか。」遊女《おいらん》が、「仏様でしたら差支えござんすまい。御両親。」その墓は故郷にある。「お許婚《いいなずけ》……?」「いや、」一葉女史の墓だときいて、庭の垣根の常夏《とこなつ》の花、朝涼《あさすず》だから萎《しぼ》むまいと、朝顔を添えた女の志を取り受けて、築地本願寺の墓地へ詣でて、夏の草葉の茂りにも、樒《しきみ》のうらがれを見た覚えがある……
 ……とばかりで、今、今まで胴忘れをしていた、お京さん……が、何しに来たろう。ああ、あの時の雑誌の使いの挨拶だ。
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尾花を透かして、
蜻蛉の目で。……
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 見ていると、その縁の敷居際に膝をついたまま、こちらを視《なが》めたようだっけ……後姿に、そっと立った。真横の襖《ふすま》を越して、背戸正面に半ば開いたのが見える。角の障子の、その、隅へ隠れたらしい。
 それは居間だ。四畳半、机がある。仕事場である。が、硯《すずり》も机も埃《ほこり》だらけ、炉とは名のみの、炬燵《こたつ》の藻抜け、吸殻ばかりで、火の気もない。
 右手の一方は甥の若いのが遣り放し、散らかし放題だが、まだその方へ入ってくれればよかったものをと、さながら遁出《にげ》したあとの城を、乗取《のっと》られたようなありさまで。――とにかく、来客――跣足《はだし》のまま、素袷《すあわせ》のくたびれた裾を悄々《しおしお》として、縁側へ――下まで蔓《はびこ》る南瓜の蔓で、引拭《ひきぬぐ》うても済もうけれど、淑女の客に、そうはなるまい。台所へ廻ろうか、足を拭《ふ》いてと、そこに居る娘《ひと》の、呼吸《いき》の気勢《けはい》を、伺い伺い、縁端《えんばな》へ。――がらり、がちゃがちゃがちゃん。吃驚《びっくり》した。
 耳元近い裏木戸が開くのと、バケツを打《ぶ》ッつけたのが一時《いっとき》で、
「やーい、けいせい買のふられ男の、意気地なしの弱虫や、花嫁さんが来たって遁げたや、ちゃッ、ちゃッ、ちゃッ。」
 ……と、みそさざいのように笑ったのは、お滝といって、十一二、前髪を振下げた、舞みだれの蝶々|髷《まげ》。色も白く、子柄もいいが、氏より育ちで長屋中のお茶ッぴい。
「足をお洗いよ、さあ、ぼんやりしないで、よ、光邦《みつくに》様。」 
 けいせい買の、ふられ男の弱虫は、障子が開くと、冷汗
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