の目で。
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三十四
――この破屋《あばらや》へ、ついぞない、何しに来たろう――
来やがったろう、と言いたくらいだ。そりの合わない……というのも行き過ぎか、合うにも合わないにも妙齢《としごろ》の女なんぞ影も見せたことのない処へ何しに来たろう。――ああ、そうか。矢野(弦光)の、通俗、首ったけな惚《ほ》れかたを、台町の先生に直ぐ取次いだところ、「好《よ》かろう。」と笑いながらの声が掛《かか》った。先生の一言だ、「好かろう。」は引受けたと同然だから、いずれ嬉しい返事を、と弦光も待つうちに、さあ……梅雨ごろだったか、降っていた。持崩した身は、雨にたたかれた藁《わら》のようになって、どこかの溝へ引掛《ひっかか》り、くさり抜いた、しょびたれで、昼間は見っともなくて長屋|居廻《いまわり》へ顔も出せない。日が暮れて晩《おそ》く帰ると、牛込の料理屋から、俥夫《くるまや》が持って駈《か》けつけたという、先生の手紙があって、「弦光座にあり、待つ」とおっしゃる。……飛びたいにも、駈けたいにも、俥賃なぞあるんじゃない、天保銭の翼も持たぬ。破傘《やれがさ》の尻端折《しりっぱしょり》、下駄をつまんだ素跣足《すはだし》が、茗荷谷《みょうがだに》を真黒《まっくろ》に、切支丹坂《きりしたんざか》下から第六天をまっしぐら。中の橋へ出て、牛込へ潜込《もぐりこ》んだ、が、ああ、後《おく》れた。料理屋の玄関へ俥が並んで、※[#「車+隣のつくり」、第3水準1−92−48]々《からから》と、一番の幌《ほろ》の中から、「遅いじゃないか。」先生の声にひやりとすると、その後から、「待っていたんですよ。」という声は、令夫人。こんな処へ御同行は、見た事、聞いた事もない、と呆れた、がまた吃驚《びっくり》。三つ目の俥の楫棒《かじぼう》を上げた、幌に覗かれた島田の白い顔が……
……あの、お京……いやに、ひったり俯向《うつむ》いた……
幌の中で、どしばたして、弦光が、「辻町か、引返《ひっかえ》して飲もう」という時、先生の俥がちょっとあと戻りして、「矢野は酔ってる、もう帰んな。……塾のものには誰にも黙っているんだぜ。」――馬鹿にも分った、これは、見合だ。
納ったか、悦に入ったか、気取ったか、弦光め、それきり多日《しばらく》顔を見せに来ない。酒でも催促するようで癪だからこっちからは出向かずと――塾では先生にお目には掛《かか》るが、月府、弁持、久須利、荷高の面々が列している。口留をされたほどだから話は出ずと。――結婚はいつだ、とその後、矢野に打撞《ぶつか》れば、「息子は世間を知らないよ、紳士、淑女の一生の婚礼だ、引きつけで対妓《あいかた》が極《きま》るように、そう手軽に行くものか、ははは。」と笑《わらい》の、何だか空虚《うつろ》さ。所帯気で緊《しま》ると、笑も理に落ちるかと思ったっけ。やがて、故郷、佐賀県の田舎の実家に、整理すべき事がある、といって、夏うち国に帰ったのが――まだ出て来ない。それについて、御縁女、相談に来《わ》せられたかな……
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糸七は蟇と踞み、
南瓜の葉がくれ、
尾花を透かして、
蜻蛉の目で、
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覗きながら、咄嗟《とっさ》に心《むね》で思ううちに、框《かまち》の障子の、そこに立ったお京の、あでやかに何だか寂しい姿が、褄さきが冷いように、畳をしとしと運ぶのが見えて、縁の敷居際で、すんなりと撓《しな》うばかり、浮腰の膝をついた。
同時に南瓜の葉が一面に波を打って、真黄色《まっきいろ》な鴎《かもめ》がぱっと立ち、尾花が白く、冷い泡で、糸七の面《つら》を叩いた。
大塚の通《とおり》を、舟が漕《こ》ぎ、帆が走る……
――や、あの時にそっくりだ。そうだ、しかも八月極暑よ。去んぬる年、一葉女史を、福山町の魔窟に訪ねたと同じ雑誌社の用向きで、中洲の住居《すまい》を音信《おとず》れた事がある。府会議員の邸と聞いたが、場処柄だろう、四枚格子の意気造り。式台で声をかけると、女中も待たず、夕顔のほんのり咲いた、肌をそのままかと思う浴衣が、青白い立姿で、蘆戸《よしど》の蔭へ透いて映ると、すぐ敷居際に――ここに今見ると同じ、支膝《つきひざ》の七分身。紅《くれない》、緋《ひ》でない、水紅《とき》より淡い肉色の縮緬《ちりめん》が、片端とけざまに弛《ゆる》んで胸へふっさりと巻いた、背負上《しょいあげ》の不思議な色気がまだ目に消えない。
――原稿を十四五枚、言託《ことづ》けただけで帰ろうと思うのを、「どうぞ、」と黙って入ってしまった。埃《ほこり》だらけの足を、下駄へ引擦《ひっこす》ったなり、中二階のような夏座敷へ。……団扇《うちわ》を出したっけな、お京も持って。さて、何を聞いたか、饒舌《しゃべ》ったか、腰掛窓の机
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