の瞬間、誰が、その藍染川、忍川、不忍の池を眺めた雪の糸桜を憶起《おもいおこ》さずにいられよう。
見る見る、黒髪に散る雪が、輝く膚《はだ》を露呈《あらわ》して、再び、あの淡紅色《ときいろ》の紗綾形《さやがた》の、品よく和やかに、情ありげな背負揚が解け、襟が開け緋が乱れて、石鹸《シャボン》の香を聞いてさえ、身に沁《し》みた雪を欺《あざむ》く肩を、胸を、腕《かいな》を……青大将の黒い歯が、黒い唾が、黒い舌が。――
糸七は拳《こぶし》を固めて宙を打った――「この狂人《きちがい》」――「悪魔が憑《つ》いたか、狂わすか、しまったり」……と叫びつつ、蝦蟇を驚かしつつ、敷きわがね、伸び靡いた、一条《ひとすじ》の黒髪の上を、光琳の錦を敷いた木《こ》の葉ぢらしの帯の上のごとく、転々として転げ倒れた。
「光邦様、光邦様。」
ぎょっとすると、お滝夜叉。
「あい、お手紙。ほら、さっき来たんだけれどね、ね、花嫁が妬《や》くと悪いから預っといたのよ、えらいでしょう。……女の人の手紙なんですもの。」
――お伽堂、時より――で、都合で帰郷する事になり、それにつけ、いつぞや、『たそがれ』など、あなたを大のご贔屓《ひいき》の、中坂下のお娘ごのお達引で、金子《きんす》、珊瑚《さんご》の釵《かんざし》の、ご心配はもうなくなりましたと申したのは、実は中洲、月村様のお厚情《こころざし》。京子様、その事堅くお口どめゆえ、秘《かく》してはおりましたが、このたび帰国の上は、かれこれ、打明けます折もつい伸々《のびのび》と心苦しく、お京様とは幾久しきおつきあい、何かにつけ、お胸にそのお含み、なによりと存じ…………
――もう可《い》い。[#地から2字上げ]――(完)
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作者自から評して云う、この(結び)には拵えた作意がある。誰方にもよく解る。……お滝が手紙を渡す条《すじ》である。纏《まとま》りがいいようにと思ったが、見えすいた筋立らしい、こんな事はしないが好《い》い。――実は、お伽堂の女房の手紙が糸七に届いたのは、過ぐること二月ばかり、お京さんと、野土青鱗(あおだいしょうめ)画伯と、結婚式の済んだ後だったのだそうである。
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[#地から1字上げ]昭和十四(一九三九)年三月
底本:「泉鏡花集成10」ちくま文庫、筑摩書房
1996(平成8)年7月24日第1刷発行
底本の親本:「鏡花全集 第二十四卷」岩波書店
1940(昭和15)年6月30日発行
入力:門田裕志
校正:染川隆俊
2008年10月24日作成
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