、素人堅気輩には用なしだ。誰が売女《くろうと》に好かれるか、それは知らないけれどもだよ。――塾の中に一人、自ら、新派の伊井|蓉峰《ようほう》に「似てるです。」と云って、頤《あご》を撫でる色白な鼻の突出た男がいる。映山先生が洩《も》れ聞いてね、渾名《あだな》して、曰く――荷高似内《にたかにない》――何だか勘平と伴内を捏合《こねあ》わせたようだけれど、おもしろかろう。ところがこれだけが素人ばりの、大の、しんし。」
「大のしんし、いい許《とこ》の息子、金《きん》ありかい。」
「お互に懐中は寂しいね、一杯おつぎよ、満々と。しんしと聞いていい許の息子かは慌て過ぎる、大晦日《おおみそか》に財布を落したようだ。簇《しんし》だよ、張物に使う。……押を強く張る事経師屋以上でね。着想に、文章に、共鳴するとか何とか唱えて、この男ばかりが、ちょいちょい、中洲の月村へ出向くのさ。隅田《おおかわ》に向いた中二階で、蒔絵《まきえ》の小机の前を白魚《しらお》船がすぐ通る、欄干に凭《もた》れて、二人で月を視《み》た、などと云う、これが、駿河台へ行く一雪の日取まで知っているんだ。
 黙《だんま》りでは相済まないと思って、「先生、私《わたくし》も、京子とともに無点本の水滸伝。」上杉先生が、「その隙《ひま》に、すいとんか、おでんを売れ。」「ははっ。」とこそは荷高似内、口をへの字に頤《あご》の下まで結んで鼻を一すすり、無念の思入で畳をすごすごと退《さが》る処は、旧派の花道の引込《ひっこ》みさ。」
「三枚目だな、我がお京さんを誰だと思うよ、取るに足らず。すると、まず、どこにも敵の心配はなしか。」
「……ところがある、あるんだ! 一人ある。」
 弦光は猫板に握拳《にぎりこぶし》を、むずと出して、
「驚破《すわ》、驚破、その短銃《たんづつ》という煙草入を意気込んで持直した、いざとなると、やっぱり、辻町が敵なのか。」
「噴出さしちゃ不可《いけな》いぜ。私は最初《はな》から、気にも留めていなかった、まったくだ。いまこう真剣となると、黙っちゃいられない。対手《あいて》がある、美芸青雲派の、矢野《きみ》も知ってる名高い絵工《えかき》だ。」

       三十

「――野土青麟《のづちせいりん》だよ。」
「あ、野土青麟か。」
「うむ、野土青麟だ。およそ世の中に可厭《いや》な奴《やつ》。」
「当代無類の気障《きざ》だ。」

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