した時、「たそがれ。――いいのね。」とおっしゃいます。……晩方でございましょう。変に暗くて気味が悪し、心細し、といいますうちにも、立込みまして、忙《せわ》しくって不可《いけ》ませんと申しましたら、お笑いなさいましたんでございます。長屋世帯はすぐそれですから、ほほほ。小説の題の事だったのでございますもの。大好きな女の名でいらっしゃるんですって。……田舎源氏、とかにもありますそうです。その時、京の五条とか三条あたりとかの暮方の、草の垣根に、雪白な花の、あわれに咲いたお話をききましたら、そのいやな入相《いりあい》が、ほんのりと、夕顔ほどに明るく、白くなりましてございましてね。」
 女房は、ふと気がさしたか、町通りの向う角へ顔を向けた、短冊の舌は知らん顔で、鶏頭が笑っている。写真館の硝子窓は静《しずか》に白い日を吸って。……
「……古寺の事もうかがいました。清元にございますってね。……ところどころ、あの、ほんとうに身に沁《し》みますようですから、そのお娘ごにおねだりして、少しばかり、巻紙の端へ。――あ、そうそう、この本の中へ挟んで、――まあ、いい事をいたしました。大事に蔵《しま》って置こうと存じながら、つい、うっかりして、まあ、勿体ないこと。」
 と、軽く前髪へあてたのである。念のため『たそがれ』の作者に言おう。これは糸七を頂いたのでは決してない。……

       七

「拝見な。」
「は、どうぞ。」
 雑誌に被《かぶ》せた表紙の上へ、巻紙を添えて出す、かな交りの優しい書《て》で、
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――折しも月は、むら雲に、影うす暗きをさいわいと、傍《かたえ》に忍びてやりすごし、尚《なお》も人なき野中の細道、薄茅原《すすきかやはら》、押分け押分け、ここは何処《いずこ》と白妙《しろたえ》の、衣打つらん砧《きぬた》の声、幽《かすか》にきこえて、雁音《かりがね》も、遠く雲井に鳴交わし、風すこし打吹きたるに、月|皎々《こうこう》と照りながら、むら雨さっと降りいづれば――
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 水茎の墨の色が、はらはらとお嬢さんの睫毛《まつげ》を走った。一露瞼にうけたように、またたきして、
「すぐこのあとへ、しののめの鬼が出るんですのね、可恐《こわ》いんですこと……。」
 目白からは聞えまい。三崎座だろう、釣鐘がボーンと鳴る。
 柳亭種彦のその文章を、そっと包むよう
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